|
藤原頼長は勉学にも優れ、キレ者である故に後に『悪佐府』と呼ばれるようになります。
彼の政治理念は道長時代の摂関政治で、身分制度はあくまで家柄を越えないものでした。
ただの「石頭」のような印象を受けますが、それはポリシーを越えて執念と言ってよく、
院の寵愛を傘に成り上がって来た者をその日記で「諸大夫」と呼び、
美福門院得子のことを「諸大夫の女(むすめ)」と罵っています。
しかし、鳥羽院の治世である以上、その諸大夫の権勢に頼らざるを得ないのでした。
白河院の崩御後、頼長の父・忠実は政界に返り咲きますが、その失脚の原因となった女の泰子を鳥羽院に院参させようとしますが、白河院の遺言もあり鳥羽院自身もあまり気が進まなかったようです。
そこで、家成の口添えを必要としたのでした。
泰子院参の翌年、得子が鳥羽院の元へ入ると、待賢門院璋子は省みられることがなくなりました。
(泰子は元々形式上の皇后で相手にされなかった。)
そして、得子が体仁親王(のちの近衛帝)を産むや、すぐにその子が崇徳天皇の猶子として皇太子に
立てられます。
その皇太子の傅となったのが、頼長でした。
この地位は皇太子が天皇となった暁には、摂政・関白が約束されていました。
得子は体仁親王の立太子に伴なって女御になります。
(『源氏物語』で桐壺帝が桐壺更衣を女御に出来なかったことを悔やみ続けたことからも分かる通り、
これは異例のことでした)
1141年、鳥羽院は圧力をかけて、崇徳天皇を退位させます。
崇徳帝も猶子の体仁親王の即位であれば、院政を敷けるので合意するのですが、
公表された宣命は「皇太子」ではなく「皇太弟」への譲位へすり返られていたのでした。
弟ではいかに三歳の幼帝とはいえ、院政を敷くことは出来ません。
騙された崇徳上皇の落胆は凄まじいものでした。
そして頼長自身も皇太子の傅であったにも拘らず、近衛帝が即位しても摂政にはなれなかったのです。
のちに糾弾される理由として挙げられますが、まず母后の得子に対して態度が悪かったことがあります。
公卿も下級貴族も全ての人が、得子に尾もねっているのに頼長はそうしなかったのでしょう。
そして、兄・忠通が得子に近づき、摂政となったのでした。
ここに摂関家の兄弟同士の熾烈な戦いがスタートします。
写真は平安神宮。この時代の関連写真があんまり見つからないなあ…。
|