中将の君のひとりごと

歴史とサッカーが好きな私のオススメを紹介します。最近はもっぱら旅人か、映画評論家気取りですが…

源平時代

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『以仁王』―9

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宇佐氏は代々一子相伝で『口伝書』と『備忘録』を受け継いできました。
故・宇佐公康氏は宇佐宗家として兄弟もおらず、最後に残った男系で、自分の死とともに『口伝書』等の内容が歴史の闇に埋もれてしまうことを惜しまれて、公表に至ったのでした。


彼の著書『古伝が語る古代史』には邪馬台国の昔からの日本の歴史について分析してあり、
日本史全般を漁ってきた私には大変興味深いものとなっています。

宇佐神宮といえば、まず浮かぶのは称徳(孝謙)天皇の道鏡への禅譲の神託事件ですが、
その後の歴史でも度々名が見えます。

源平時代もそのひとつで、今日まで黙してきた一族の秘伝がここに明るみになったのです。

さて、源平時代の大宮司・宇佐公通の妻は平清盛の女で、安徳天皇の母・徳子と姉妹にあたります。
ですから、彼の息子の公仲は安徳天皇の従兄弟というわけです。

いよいよ壇ノ浦の決戦を前にした平家は安徳天皇と容姿の似ていた公仲をすりかえたというのです。
そして、平家滅亡のその時、公仲は安徳帝として海に沈み、安徳帝本人は公仲として天寿を全うしたといいます。


これは重い歴史です。
大体、先祖の言い伝えと言うのはその一族の由緒の正しさを示すためのものであり、
宇佐の国造の一族がわざわざ捏造する必要はないからです。

そして、ずっとひた隠しにしてきた事実からもその目的は損なわれています。
それだけにこの伝承は信憑性があるように思われます。


しかし、前回書いたような理由で偽者の安徳帝を立ててわざわざ入水することに
私は首を傾げざるを得ません。
そもそも、「壇ノ浦の戦」は平家にとって最後の戦ではなかったのです。
平家は元々「海の平家」と呼ばれる程海戦は得意としていました。

事実「壇ノ浦の戦」は潮流が変わるまで平家軍が押していましたし、
絶対的な自信を持っていたはずです。

その平家が大勢の海軍の外へ安徳帝を連れ出すとは思えません。
例え、避難させるとするならば絶対に神器を同行させ、その正当性を主張し続けるはずなのです。


これは以仁王も同じだと思うのです。


写真は宇佐神宮下宮です。

『以仁王』―8

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二位尼は予てから決めていたのです。
「主上の御供に参るなり」
と。

つまり、天皇も神器も沈めてしまうことが前提で、その供をしようと思っていたというのです。
これは、その前の知盛の「見苦しきものどのをば、皆海へ入れて」の言葉に符合します。

安徳天皇はもちろん「見苦しきもの」ではありませんが、この場合「残されては平家が見苦しくなるもの」といった意味でしょうか。

だからこそ、戦の様子の分からない女たちに指揮を執っていた知盛が
自ら「その時」を告げねばならなかったのです。


二位尼時子は特に神器に対して思うところがありました。

この前の戦で、源氏方に捕らわれていた時子の三男・重衡の引渡しの条件に「三種の神器」との
引き換えが迫られていたのでした。
時子は引き換えに応じるように訴えますが、一門は神器を重衡ひとりの命には換えられないと退けます。

愛息の命に換えたその神器をみすみす源氏方に渡してたまるか、という気概が二位尼にはあったはずです。


老女の恐ろしい執念と思う人もいるでしょう。
この「壇ノ浦の戦」で死亡したことが確実視されている上流女性は時子だけだったのですから。

そして時子が滅び行く一族と運命を共にせねばならない天皇のお供を買って出たとしたら、
その天皇が偽者なはずがないのです。
なぜなら、神器と共に在るその子供こそが正当な天皇であるからです。



私の見解はここまでにしましょう。

思っていたよりよく纏まってしまったので今更なんですが、『皇子逃亡伝説』でも紹介されている
安徳天皇の生存説に話を移します。
それは代々「宇佐八幡宮」の大宮司を務める宇佐宗家の故・宇佐公康氏が残した
『安徳天皇はすり替えられていた』の中にあります。

壇ノ浦の戦のとき、宇佐神宮の大宮司は宇佐公通と言いました。
度々出てきますが、その時代と言いますか古代から近世まで、大宮司というのは大変な力を持っていました。

戦国時代で言うと大名なみの勢力があり、尚且つ公家の格式を持っているということになります。
実際、源頼朝の母親は熱田神宮の大宮司の女で、その格式から頼朝は義朝の三男でありながら
早くから嫡子として決まっていたのでした。

更に加えると、足利氏の祖先の足利義兼の母はこの頼朝の母と姉妹であったことから、
頼朝とは兄弟以上の付き合いをし、北条政子の妹を娶っていました。

父だけ同じくする弟たちに対する頼朝の仕打ちを思うと、いかに頼朝がこの母方の血筋を誇りに思っていたか分かります。

他に、南北朝時代で取り上げた阿蘇氏や、瀬戸内海の鶴姫を生んだ大祝氏、武田信玄の妻となった諏訪氏など、例を挙げればきりがありません。

その宇佐神宮の大宮司・公通の妻は平清盛の女・浄子でした。
二人の間には8歳になる公仲という子供がいました。

古伝はこの公仲と同い歳の安徳帝を取り替えたというものです。


写真は厳島神社の大鳥居です。

『以仁王』―7

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安徳天皇にも生存説があります。
平家一門と共に山奥へ落ち延びたという平家落人伝説や、安徳天皇個人の身代わり説などです。

そもそもなぜ、清盛の妻である二位尼時子は安徳帝を抱いて入水したのでしょうか?

敵が身近に迫ったことによるパニックであるとも考えられます。。


『平家物語』ではこの時の様子を、こう伝えます。

いよいよ敗色の濃くなった平家軍は、知盛(時子の次男)が小舟に乗って帝の船にやって来ます。
「いよいよ最後と思われます。見苦しいものは海へ投げ入れてしまいなさい。」
そう言うと、知盛は船の上を掃除します。

その様子を見た二位尼は全てを悟り、予てより決めていたことでもあったので女供に向かって言います。
「私は女の身なれど、敵の手に落ちようとは思わない。志しを同じくするものは後に続きなさい。」

そうして神璽を脇に挟み、神剣を腰に差して、帝を抱いて船の端に歩み出ました。
「尼前、我をばいづちへ具していかんとはするぞ」
8歳の帝の問い掛けに、二位尼は「帝は前世での功徳のおかげで天皇に地位に生まれたこと」そして
「その御運が今尽きようとしていること」を語って聞かせます。
伊勢神宮に暇を申し、西方浄土へ祈りを捧げるように促すと、帝は小さい手を合わせるのでした。

そのあどけない様子に涙を堪えながら、
「波の底にも都の候ふぞ」
そう言って時子は海へ身を投げたのでした。


安徳帝の母である建礼門院徳子も後に続いて飛び込みますが、髪を熊手に引っ掛けられて、
引き上げられます。

そんな悲喜こもごもの様子を見た知盛も
「見るべき程の事をば見つ」
と言って、鎧を二領着て、乳母子である伊賀家長と手を取り合って海中へ沈みました。


建礼門院はその後出家して、他の助かった女たちと共に大原に住みます。

ですから、女のそれも二位の位まで与えられている時子は、源氏の手に落ちても殺されることはなかったはずです。

安徳帝もそれは同じですが、むしろこの文面からは時子の入水は自分が死ぬことよりも
安徳帝と神器を敵の手に渡さないことの方が目的だったように思えます。

都ではすでに神器のない状態で、安徳天皇の弟・後鳥羽天皇が異例の即位をしていました。
この時点で二人の天皇が存在していたのです。


帝と神器。
このふたつこそ、安徳帝の正当性を示すものだったのです。


うわ〜、間に合わなかった!!パソコントラブルが〜!!
写真は京都御所紫宸殿です。(近すぎてよくわかんないね…)

『以仁王』―6

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義経は平泉に逃れたことによって、源頼朝に多大な利益をもたらします。


ひとつは義経の指名手配が全国に行き渡ることで、
後の鎌倉幕府の支配体制が全国に及ぶための命令系統が確立したことです。

つまり、義経は日本で初めての全国指名手配となったのです。
例えば以仁王の逃亡伝説の場合、平家の一族による追跡は受けましたが、源氏方の土地はスムーズに
通れたのが、義経にはそういう場所が平泉以外なかったわけです。


そして、もうひとつが義経追討の遅れが奥州討伐の口実になったことです。
奥州を支配していた奥州藤原氏の秀衡が1187年に没すると、頼朝は秀衡の子・泰衡に義経の追討を
命じました。
秀衡という大樹を失った藤原氏は泰衡自身の追討を朝廷に奏請されるに至り、義経の討伐を図ります。


衣川の館で義経は自刃し、その首は鎌倉に送られました。
しかし、上記の理由で頼朝は自ら奥州討伐に向かい、泰衡は義経の死後4ヶ月で討ち取られました。

もう、お分かりでしょう。
義経が生きうる限り、その罪の元に頼朝は支配を広げていくのです。

命を狙ったことよりも、その存在を散々に利用したことの方が私には残忍なことのように思えます。


まあ、見たわけではないので衣川で死んだとは断定出来ませんが、
尊敬する永井路子氏の言葉を借りるなら、「政治的に死んだ」のは確実なのです。
頼朝の立場であったら、「反頼朝」の兵を吸収出来る源氏の血をうける存在が
抹殺されればそれでよかったのです。

蝦夷に行こうが、どこに行こうが、将軍としての義経が存在しないのであればどうでもいいのです。


写真は平泉の中尊寺です。

『以仁王』―5

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しばらく「以仁王」から外れます。


さて、いよいよ源義経の登場です。
本来「生存説」と言えば、この人が本家のように言われています。
義経に全然興味のない私でさえ、「蝦夷説」「大陸説」と知っているくらいですから恐れ入ります。

義経の人生について今更書くこともないでしょう。
歴史に颯爽と登場した源義朝の末子「九郎義経」は兄・頼朝の挙兵を聞いて駆けつけます。

そして、頼朝から兵を預かり、まずは木曽義仲を粟津に敗死させます。
のちに平家を壇ノ浦に沈めますが、その前にすでに頼朝軍とひと悶着起こしており、
慎重をきさねばならない平家攻めで彼は大失態を犯します。

それはもちろん、安徳天皇と神器の入水でした。
朝廷にとっては速やかな皇位継承こそ急務のことで、その為に「三種の神器」は不可欠でした。
頼朝はその「三種の神器」を盾に、朝廷との取引を優位に運ぶ目論見があったのです。

平清盛の妻である時子が帯に神剣を差して安徳帝を抱えたまま入水しました。
後に続こうとした平知盛の妻が神鏡を持って飛び込もうとしたところを矢が袖を貫き、船の縁に刺さったので、身動き出来なくなったところを捕えられました。
神璽は海面に浮いていたと言います。

多分、神璽も時子が持っていたのでしょう。
浮いて来ないように手近にあった硯の類を袖に入れたとありますから、そうして一緒に沈んだものと思われます。


この極限状態の中で、建礼門院徳子には何も託されていないことが判ります。
事実、徳子は沈みきれずに義経軍によって捕われるのですから、時子は母親ながら、彼女の処し方に信頼を置いていなかったのでしょう。

そうして、神剣だけが永遠に失われたのです。

数年前の大河「義経」での、生き残った女たちの姿は本当に哀れで胸を打ちました。
でも、時子を演った松坂慶子さんは根性出して安徳帝を抱っこして欲しかったです。
抱いて離さなかったことが重要だったハズだから…。


「三種の神器」のひとつが欠けたことは大失態でした。
神剣が失われたことにより、取引など出来なくなったからです。
朝廷にとっては平家など滅亡しようが生き延びようがどうでもいいことで、
「三種の神器」を用いて速やかに皇位が継承されることだけが最重要事項だったのです。

平家の軍は討ち破れば済むことですが、本陣に迫っていたなら違う処し方があったのです。


そうした失態の本質にも気付かずに義経は兄との軋轢を重ね、遂に追討令が出されます。

「南北朝時代」でも触れたように嵐に遭った義経主従は平泉に逃れます。


後のことがあるので、道草が長くなってしまいました…。
写真は厳島神社です。

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