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宇佐氏は代々一子相伝で『口伝書』と『備忘録』を受け継いできました。
故・宇佐公康氏は宇佐宗家として兄弟もおらず、最後に残った男系で、自分の死とともに『口伝書』等の内容が歴史の闇に埋もれてしまうことを惜しまれて、公表に至ったのでした。
彼の著書『古伝が語る古代史』には邪馬台国の昔からの日本の歴史について分析してあり、
日本史全般を漁ってきた私には大変興味深いものとなっています。
宇佐神宮といえば、まず浮かぶのは称徳(孝謙)天皇の道鏡への禅譲の神託事件ですが、
その後の歴史でも度々名が見えます。
源平時代もそのひとつで、今日まで黙してきた一族の秘伝がここに明るみになったのです。
さて、源平時代の大宮司・宇佐公通の妻は平清盛の女で、安徳天皇の母・徳子と姉妹にあたります。
ですから、彼の息子の公仲は安徳天皇の従兄弟というわけです。
いよいよ壇ノ浦の決戦を前にした平家は安徳天皇と容姿の似ていた公仲をすりかえたというのです。
そして、平家滅亡のその時、公仲は安徳帝として海に沈み、安徳帝本人は公仲として天寿を全うしたといいます。
これは重い歴史です。
大体、先祖の言い伝えと言うのはその一族の由緒の正しさを示すためのものであり、
宇佐の国造の一族がわざわざ捏造する必要はないからです。
そして、ずっとひた隠しにしてきた事実からもその目的は損なわれています。
それだけにこの伝承は信憑性があるように思われます。
しかし、前回書いたような理由で偽者の安徳帝を立ててわざわざ入水することに
私は首を傾げざるを得ません。
そもそも、「壇ノ浦の戦」は平家にとって最後の戦ではなかったのです。
平家は元々「海の平家」と呼ばれる程海戦は得意としていました。
事実「壇ノ浦の戦」は潮流が変わるまで平家軍が押していましたし、
絶対的な自信を持っていたはずです。
その平家が大勢の海軍の外へ安徳帝を連れ出すとは思えません。
例え、避難させるとするならば絶対に神器を同行させ、その正当性を主張し続けるはずなのです。
これは以仁王も同じだと思うのです。
写真は宇佐神宮下宮です。
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