”なつかしいもの” 中国地方

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 さて、「なつかしの鉄道」旧型国電特集の最後は、最西端の旧国、宇部線・小野田線です。

 中国地方の山陽本線以外の電車区間は、殆どが買収国電区間。なんていったって当時は伯備線もキハ181系が走る非電化区間でした。

 当時、小学校時代の仲の良かった友達が山口に引っ越した関係で、昭和53年と54年は山口に行く機会が多くありました。

 広島から小郡(現:新山口)まで行って山口線に乗り換えます。昭和54年の山口線といえばすぐに思い浮かぶのがC57のやまぐち号。もちろん記録に残してありますが、当時はピカピカのC57を横目に必ず宇部線のクモハ41(画像下)とクハ55(画像上)のコンビの記録に励んでいました。

 ご覧戴いたように、宇部・小野田線の旧国は「前面警戒色」があるものの「ぶどう2号」の茶色。ちょっと警戒色が不満でしたが「いい色」には間違いありません。

 この宇部・小野田線は昭和56年に1M方式の新形式105系によって高性能化されていきます。ただ、105系も最短編成が2両だったので本山支線のみが同じ塗装のクモハ42で運行を続ける事になりました。

 この画像は昭和54年夏、やまぐち号が運行を開始したというので、友達の所へ行く途中でやまぐち号を記録に残そうと思った日です。そのためネガではなくポジのコダクローム64(KR)を使っています。コダクロームの色の耐久性は100年近いとの事。この画像も27年が経とうとしているのに殆ど変色がありません。偶然とはいえ、本当に良かったと思います。

 「なつかしの鉄道」旧型国電編。最終回の次回は、いよいよ本山支線のクモハ42の登場です。



         

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 可部線には72系のトップナンバーである クモハ73001 が在籍していました。この車両は京阪神地区から転入したもので、京阪神時代に全金属製車への「近代化改造」を受けています。

 戦時設計の72系、特にクモハ73は初期型が多く(昭和30年代の製造末期は長大編成用のモハ72・クハ79・サハ78のみが造られ、クモハは造られなかった)、早い時期に車体更新の必要性が出てきました。そのため、国鉄の吹田や大井の工場で全金属製車への「近代化改造」が行われました。

 上の画像のこの車両が72系はじめての「近代化改造」車、クモハ73001 トップナンバー。見た目は前照灯が「おでこ」に埋まったぐらいに見えますが、これでも「近代化改造」が行われている全金属製車のです。この後の「近代化改造」は下の画像の車両のように101系とも見間違えるような改造になって行きます。両方とも吹田工場の担当した車両です。

 この可部線の72系も昭和59年、宇部線からの転入や関東の常磐線各駅停車の103系から改造された105系によって淘汰されて行きます。

 翌年には富山港線の72系も淘汰。戦後の日本の経済発展を根底から支えた72系はJRに引き継がれることなくこの時期に系列として消滅して行きます。

 

 可部線を終えた「なつかしの鉄道」の旧国編もいよいよ終盤。最後は宇部・小野田線に向かいます。

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 広島には可部線という「買収国電」の路線があります。ここには昭和59年迄、旧国が残っていました。

 元々、呉線電化用に転属してきた72系は呉線に前回の記事の「山スカ」が転入した後は可部線へ転出、17メートルの旧国達を淘汰しました。

 その72系はさまざまなバリエーションがあり、同時期まで72系が残った富山港線が比較的新しいタイプが多かったのに比べて古いものが多くありました。

 このクモハ73・クハ79達は“モハ63”と呼ばれ、戦時設計の時代に造られた後、桜木町事件をきっかけに改良を加え72系となったグループ。正面の「おでこ」の部分に通風孔を埋めた後がありますが、これが“モハ63”の証です。

 可部線は日中は2連、ラッシュ時は4連が基本。広島の一つ西にある横川から可部までを運行し、今では廃止になった可部から三段峡まではDCで運行されていました。

 その中で当時、朝に山陽本線の海田市まで往復する運用がありました。速度の遅い可部線の72系も広島〜海田市間では高速運転を行っていました。この4連の本線運用が当時の72系にとっては花形運用だったのかも知れません。

 可部線にもやはり全金属車に改造されたものも存在しました。中でも試作全金属改造車とも言える「クモハ73001」というトップナンバーも在籍していました。

 次回は、クモハ73001などの全金属車をご紹介します。

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 以前にも書いた事がありますが、私は昭和52年から3年間広島に住んでいました。

 昭和50年3月に新幹線が博多まで開業、その後の山陽本線はいわば「巨大なローカル線」でした。

 当時の山陽本線のローカル列車の主役は153系・111系と80系でした。私が行った昭和52年は未だ80系が一番多く、二等車格下げのクハ85なども「当たり前」に走っていました。

 翌53年、115系が東北線の小山から転属、また新製の115系2000番台が投入されると、一気に80系が淘汰されて行きます。昭和53年には80系は引退します。

 また、呉線には電化当時は72系でしたが、その後72系を可部線に転属させ、中央東線から屋根を低くしたモハ71を含んだ「山スカ」と呼ばれる70系が転入しました。

 この70系は一部時間帯には山陽本線へも入線、80系より約一年長く活躍しました。

 これにより、日本の長距離電車の草分け的な二つの形式は、ほぼ本線から引退し本来の役目を終えて行ったのです。

 「巨大なローカル線」的だった広島地区の山陽本線は昭和57年11月の改正で編成を短くした上で列車本数をふやすという「全国初の試み」を、「ひろしまシティ電車」の愛称で始めます。実はこれが現在のJR線の地方交通の基本形になって行ったのです。

 広島の旧国、続けて次回からは「可部線」の記事の予定です。

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 福塩線は山陽本線の福山から広島県北の芸備線塩町を結ぶ路線ですが、南部の府中までは電化区間。途中の可部まで電化されていた可部線と共通点があります。

 ですから電化区間としては短距離。この関係もあり遅くまで旧型国電が残っていました。

 以前は濃紺の戦前型国電が走っていたそうですが、私が訪ねた時は、阪和線から転属してきた70系の全金属車300番台に統一されていました。飯田線の80系も300番台の全金属車でしたね。

 綺麗な編成美。旧型国電の最後を飾るにふさわしい完成された姿でした。

 この70系も昭和56年、黄色に紺帯の新鋭1M方式の105系によって置き換えられていきました。新性能車初めての1M方式の105系やこの後登場する同じ1M方式の119系、123系は次々と最後の旧国を置き換えていく事になります。

 ところで下の画像の車両はクモハ32といいます。これは戦時中クモハ42をロングシート化して4ドアにした形式なのです。戦時中ならではの形式でしたがこの4ドア車の発想が戦後の72系へ受け継がれ、そのまま101系・103系を経て今へ続いているのです。

 昭和50年代の広島はまだまだ各地に旧型国電が活躍していました。広島の旧国、この後、何回かに亘り記事にしていきたいと思います。

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