京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

名将シリーズの続きです。次の名将はアケメネス朝ペルシア帝国の建設者キュロス2世でした。


その前に、少し補足です。
前回の続きのアッシリア帝国の様々な遠征で有名なものとしては、

セナケリブによるバビロン攻略。
(以後バビロニアはアッシリア王の直接統治下に置かれます)
次代エサルハドンは本格的なエジプト遠征を行いメンフィスを攻略しエジプトを征服します。
(ここに世界帝国が完成)
次代アッシュールパニパルは再び反乱したエジプトに第2、第3の遠征を行い再び征服。
(しかし完全に征服できず、その後再びエジプトが復活)

その後、アッシリアは急速に衰退し、
アッシリア支配下のバビロニア南部の属州総督ナポボラッサルが、反乱を起こし、アッシリアからの独立し新バビロニア建国します。
ナポボラッサルはバビロニア北部へ勢力を拡大し、スキタイ人を撃退したメディア王国キュアクサレスと同盟を結び、ついにアッシリアの首都ニネヴェを陥落させ、アッシリア滅亡。



アッシリア滅亡後のオリエント情勢は、メディア、新バビロニア、リュディア、エジプトの間で勢力均衡時代が訪れますが、これも長続きはしませんでした。
この時代の大王たちとしては、
分裂した国家を再統一したエジプト第26王朝プサメティコス1世やアマシス、29王朝アコリス
新バビロニアの建国者ナボポラッサルとその子でアッシリア帝国を滅ぼしたネブカドネザル2世。
同じくアッシリア帝国を滅ぼしたメディア王国全盛期のキャクサレス。
領土を大きく拡大したリュディア王国全盛期のアリュアッテスが有名です。


この間の有名な戦いとしては、
エジプト王ネコがユダヤを攻略した前609年のメギドの戦い(第2次)
新バビロニア王ナポポラッサルから派遣された王子ネブカドネザルが、侵攻してきたエジプト王ネコを破った前605年のカルケミシュの戦い 
ネブカドネザル2世による前586年のエルサレム占領。(神殿を破壊、捕虜は首都バビロンへ連行=バビロン捕囚)
メディアのキャクサレスとリュディアのアリュアッテスが交戦中に、ギリシアのターレスが予言した皆既日食が起こって双方和解したた前585年のハリュス川の戦い等です。



さて、いよいよ、古代最大の帝国アケメスネ朝ペルシア帝国を建設した大王キュロス2世です。

キュロス大王は、古代ギリシアやローマ時代の人にも非常に伝説的に尊敬された人物です。
ルネサンス時代のマキアヴェッリ「君主論」で、優れた君主像として、ユダヤのダビデ王やローマ建国のロムルス等と共に称えられているのも有名です。
アレクサンドロス大王は、アッシリアの伝説的女王セミラミスとペルシアのキュロス大王を特に高く評価し、彼らの偉業に負けまいとしてアジアへの大遠征を行いました。
そして、荒らされていたキュロス大王の墓を再興したりしています。アレクサンドロスが、ギリシア神話の英雄アキレスに自身を準えていたのは有名ですが、アジアを支配した自身を偉大なキュロスの後継者と考えていたのも確実のようです。

さらに、クセノフォンの「キュロスの教育(Cyropaedia)」(京都大学学術出版会より出版あり)は理想的な王としてその生涯を歴史小説風に描写した名著で、後世、帝王学の教科書的に愛読されていきました。
この本に書かれているキュロス像は、歴史上の実在のキュロスでは無く、当時の伝説等を集めて非常に美化された姿です。クセノフォンは、ペルシアの偉大な統治者の姿を、当時の戦乱に明け暮れるギリシア諸国家を批判するために対照的に描いたと考えられています。
政治・軍事の天才としてのキュロス像はこれにより広く知られることになります。
「キュロスの教育」は、軍事教科書としてリデル・ハートによれば、スキピオから、グスタフ・アドルフ、ウルフ、ナポレオン他多く名将が愛読していました。ナポレオンはキュロスの実施したティンブラの戦いで(エパミノンダスではなく)キュロスが斜線陣を生み出したと称えました。ナポレオンがあの世界名将7人と共にキュロスを名将にランクしたわけですね。

偉大な指揮官・統治者として西洋でも評価されてきたキュロス大王の戦役を簡単に確認しておきましょう。

紀元前700年前後に誕生したアケメネス朝ペルシアは、それまでメディア王国に臣属してきましたが、キュロスの登場により歴史の主役となります。

前559年小王国アンシャンを相続したキュロスは、メディアに対する数年間の攻防の末、前550年、キュロス2世は、メディア王アステュアゲスを破りエクバタナを占領します。

ここにメディアの広大な領土を継承したキュロスは、続いて新バビロニアのアルベラ地方に侵攻開始。
また前547年からはリディアとの本格的な戦闘が開始されます。

前546年最初の大戦プテリアの戦いの後、キュロスは首都サルディスに引き上げるリディア王クロイソスを追撃し、ティンブラの戦いで大勝利、次いでサルディスを包囲攻略しクロイソスを降伏させます。

キュロスは東方へ帰還し、545年からはマッサゲタイ族討伐など東北方面に遠征しヤクサルテス川まで領土を拡大していきます。

この間、キュロスが後事を任せたリュディア人パクテュエスが沿海地方で反乱し、総督タバロスをサルディスに包囲しますが、将軍マザレスが討伐軍率い反乱を平定します。マザレスはさらに沿岸地方を略奪、その病死後は後任ハルパゴスがイオニア各地を攻略します。

さらに、ペルシア軍は、オピスの戦いで新バビロニア王ナボニドゥスを破りバビロンを占領し、前539年新バビロニアを滅亡させます。
この時、バビロニアに捉えられていたユダヤ人を解放しパレスティナに返したことから、後世西洋でのキュロスの名声を高めることになるわけです。

ヘロドトスによれば、前529年キュロスは女王トミュリス指揮するマッサゲタイ族に対する遠征中に戦死したと伝えられていますが、その後もペルシアは各地を攻略します。

後継者カンビセス2世は、前525年エジプトに侵攻、ペルシオンの戦いでエジプト王プサメティコス3世を破りエジプトを征服します。ここにペルシア帝国は、アッシリア以来、アッシリア以上の広大な世界帝国となりました。

その後は、522年に、ペルシア本国でマゴス司祭ゴウマタが反乱。カンビセス2世はこれを討伐途中で死亡。
ここにダレイオス1世が登場。彼はキュロス家と別の家系とも考えられる人物ですが、ペルシア7名家の首長と共に、522年ゴウマタを倒し政権樹立します。そして2年で各地の反乱を鎮定。
521年バビロンの反乱を平定。518年にはエジプト遠征で反乱を平定。

518年〜510年にはインドのパンジャブ地方にも領土を拡大。
514年にはダレイオスはスキタイ遠征を開始し、イストロス川を渡りますが、土地の広大さとスキタイ王イダンテュルソスの焦土後退戦術により失敗。しかし黒海の入り口を制します。
さらにペルシア軍総司令官メガバソスはトラキアを征服。後後任オタネスはビュザンチオン、カルケドン、レスボス周辺攻略します。

ここでイオニアの反乱が発生。いよいよギリシアとの有名なペルシア戦争になります。



ということで、キュロス2世は、世界大帝国の建設者です。
1代でメディア、リュディア、新バビロニアを滅ぼした偉大な大王でした。
小アジアのギリシア人に対しては、武力で脅威を与えるのと同時に利益による懐柔政策も採用。
ギリシア人の技術を高く評価し、兵士としても採用しました。またバビロニアに捉えられていたユダヤ人を故郷に返したことは、後世西洋でのキュロスの名声を不朽のものにしました。

詳しく紹介しませんでしたが、キュロスはしばしば奇策を用いる才能でも知られます。
対リュディア戦では、リュディアの馬がラクダの臭いを嫌うという情報でラクダ部隊を用いて勝利したり、バビロン攻略の際は、上流で川の流れを塞き止め、下流より歩いて渡れるようにして攻め込むなど戦術の名手でもありました。古代最大の名将として真っ先に選ばれるのも当然です。後世への影響を考えると、古代オリエント最高の名将と思います。


ペルシアではもう一人の大王ダレイオス1世も、名将投票ではもちろん票が集まります。
最盛期の大王ダレイオス1世も偉大な政治家でした。
被征服民に対する寛容な懐柔政策は、彼らの協力を生み出しました。
反乱が相次いだアッシリア統治と違った他民族を巧みに利用する政策でした。
彼の政策は長くペルシアの政治の基盤となりました。アレクサンドロスの帝国も、その後のパルティア王国も、ササン朝ペルシアも彼の優れた統治政策を受け継いだのです。

492年、小規模な遠征軍がマラトンの戦いでギリシア軍に敗れた後、486年ダレイオスは真の本格的なギリシア遠征を企画しますが、エジプトでの反乱のため、実行できず死去します。
もし彼が生きていれば、ギリシアは征服されてその後の世界の歴史が変わったとも言われています。それほどの偉大な人物でした。

大王と称えられている上の2名以外は、やはり少しスケールが小さくなりますが、
ネそれ以外の諸王としては、ギリシア遠征で有名なクセルクセス1世。ペルシア遠征軍は敗北しましたが、彼のスケールの大きな遠征作戦は後世の軍事遠征の指標となりました。
そして父王のギリシア遠征後の混乱を収めたアルタクセルクセス1世。

アルタクセルクセス2世は、弟キュロス(小キュロス)の反乱で知られています。
401年、兄王アルタクセルクセス2世に対し、弟キュロスが反乱を起こした経過は、クセノフォンの書「アナパシス」により良く知られています。
キュロス(小キュロス)はスパルタの傭兵隊長クレアルコスらを集め、サルディスで反乱しユーフラテス河沿いにバビロンに迫ります。この行軍は軍事的にも目覚しいものでした。キュロスは、兄王アルタクセルクセス2世の大軍を相手にバビロン付近のクナクサで戦います。キュロスは奮戦し有利な戦況となるも戦死し、たちまち反乱軍の敗北となります。その後、クセノフォンらギリシア傭兵1万人の退却行の記録は、アレクサンドロスの遠征にも影響を与えました。

他にはエジプト遠征を行ったアルタクセルクセス3世、そして反乱を平定し即位した最後のダレイオス3世という感じですね。
ようやくオリエントの諸国家興亡を終わらせたいと思います。
名将100選は時々続けます。

閉じる コメント(3)

顔アイコン

キュロス2世については知りませんでした。ダレイオス1世の建設したペルセポリスを見ましたが、壮大でした。国のインフラを整備した偉大な王でしたね。TBしますね。

2007/10/28(日) 午前 8:13 さるみみの見た世界

キュロス2世は、史上最初の英雄といっても良い人物だと思います。ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロスは、ギリシア神話の英雄アキレスを理想の英雄と考えていた事は良く知られていますが、キュロスや女王セミラミスといった彼に先行する英雄達にも敬意を持っていました。19世紀的な理想化したヨーロッパ中心的な史観でない近年の研究では、アレクサンドロスはペルシア帝国を否定したのではなく、偉大なキュロスの後継者として新ペルシア帝国を建設を目指していたことも判ってきたようですね。

2007/10/28(日) 午後 1:36 [ hir**i1600 ]

顔アイコン

アレクサンドロスは確か、昔のバベルの塔、今のバクダッド近郊に世界帝国の首都を定め、その地で亡くなっていますが、それ以前にペルシャ制圧後、一説によれば3万人のギリシャ青年とペルシャ女性との婚姻を進め、混血を計ったとも言われていますね。

2007/10/28(日) 午後 7:54 [ ciaocommodore ]

開く トラックバック(1)


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事