京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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続・信長

続きです。さすがに長いですね。どこかで短くします。

さて、翌元亀2年(1571)2月浅井方の佐和山城を奪取。
浅井・朝倉氏と石山本願寺の連携遮断のため木下秀吉に近江を進駐させます。
秀吉はしばしば浅井軍と小競り合いをしながら、調略により浅井家諸将を織田方に寝返らせていきます。

 
5月、伊勢長島一揆を攻略するため、信長自身5万余の軍勢を率いて出陣しますが、要塞化された長島陣地を攻略できず撤兵。撤退の際、一揆軍追撃で殿軍の氏家卜全らが戦死。同じく5月松永久秀が三好三人衆、三好義継らと結び反織田同盟に参加。


9月、浅井・朝倉と結ぶ比叡山延暦寺を焼き討ちし、根本中堂、山王二十一社を焼き払い僧侶男女数千を殺害。比叡山延暦寺を焼き討ちは、信長にとっては京都支配の安定と、浅井・朝倉氏と石山本願寺の連絡線を断つ意味で必要不可欠だったのかもしれませんが、この所業が当時、彼の評判を非常に落としたことは想像できます。


翌元亀3年(1572)信長、近江に出陣し周辺を荒らし、また4月河内に佐久間、柴田、明智軍ら2万余で松永久秀軍を包囲、5月降伏させます。
9月義昭に再び十七ケ条からなる意見書を突きつけ、対立は表面化。


10月反織田同盟の中核、武田信玄が、約3万の軍で徳川家康の領地であった遠江に侵攻を開始。
11月浅井・朝倉軍が秀吉の守る虎御前山・宮部砦を攻撃するが反撃にあい退却。信長は、家康の援軍要請では佐久間、平手軍3千の援軍を派遣。  


12月三方が原の戦で徳川軍1万1千が、武田軍2万5千軍に大敗。
武田軍は余勢を駆って翌天正元年(1573)1〜2月にかけ徳川方の三河の属城、野田城を包囲攻略しますが、信玄が発病したために撤退を開始。信玄が本当に上洛まで考えていたかは諸説あります。


天正元年(1573)3月将軍足利義昭は、松永久秀らと同盟し、信長に対し挙兵。
信長は武田信玄の動向が不明のため、4月正親町天皇を利用し和睦勧告を伝え、義昭の拠る二条城を囲んで講和を強要し成立。その数日後、武田信玄が甲斐への撤退中に病没。


6月再び義昭が反信長の動きを見せますが、翌7月信長は義昭を槇島城に攻め降伏させます。こうして、反織田包囲網の中心人物、将軍義昭を失脚させ、一つの時代に幕を下ろしました。
信長はいよいよ宿敵浅井・朝倉氏に取り掛かります。


8月織田方の内部工作の成果により、浅井氏の武将阿閉貞征が織田方に内応。
小谷城が孤立したため、信長は3万の軍で近江に侵攻します。


これに対し、浅井長政は小谷城に籠城し、朝倉義景も自ら2万の大軍を率いて浅井救援のため北近江に本陣を敷きますが、これに対し信長軍は、小谷城と朝倉軍の包囲を進めます。
ここで信長は直属部隊を率いて朝倉軍陣地を奇襲し、敵前線基地を攻略。これにより朝倉義景は形勢不利と見て撤退を開始しますが、信長はこれを好機と捉え、自ら先頭に立って追撃を開始します。この電撃的な猛追を受けて、朝倉軍は多くの将兵を失います。


織田軍はさらに徹底的に追撃し、朝倉軍の近江遠征軍はほぼ壊滅状態となり、義景はわずかな手勢を率いて一乗谷へ帰還します。信長は2日間休息を取らせた後、大軍を整えて越前に攻め入ります。朝倉義景は国内の武将らから離反されてさらに逃れて、信長軍はたちまち一乗谷を制圧。ついに朝倉義景は自刃します。
浅井氏に対する包囲も強められ、小谷城も8月末落城、浅井久政・長政が自刃して、ここに宿敵浅井・朝倉氏が滅亡します。


追撃からわずか8日間で朝倉氏を、さらにその10日余で浅井氏を滅亡させることに成功したのでした。これは織田信長の最も成功した戦いのひとつでしょう。


9月岐阜に凱旋して、休む間もなく、伊勢長島一揆勢力の伸張により、北伊勢の国人領主達が信長に背きはじめている情勢に北伊勢へ出陣。

信長は途中、近江方面から進軍してきた柴田、佐久間、羽柴、丹羽、蜂屋軍と合流し北伊勢侵攻作戦を開始。長島に呼応していた諸城を陥落させ、10月には北伊勢一帯を平定、残すは長島一帯のみとなりました。この間、海からの長島攻撃のため伊勢大湊の船を桑名に集めますが調達できなかったために長島攻めは断念し、滝川一益を守備に残し10月末撤兵。
今回も撤兵の際に一揆勢から攻撃を受け、殿軍に犠牲を出しながら本隊は大垣城に戻ります。

さらに11月佐久間軍が三好義継を滅ぼし、松永久秀を再び帰順させます。


こうして元亀2年(1571)〜天正元年(1573)は、信長にとって反織田同盟勢力を切り従え天下統一に大きく前進した年になりました。

この目まぐるしい3年間の攻防で、信長は、比叡山延暦寺、朝倉義景、浅井長政、足利義昭、三好義継、三好三人衆らを平定しました。さらに武田信玄の死により、織田包囲網は崩壊したといえます。
今や最も手ごわい敵は、石山本願寺を中心とする一向宗門徒勢力、特に頑強に抵抗する伊勢長島の一揆の平定が直近の課題でした。




信長の成功の理由としては、反織田同盟諸国が一致した行動を取れなかったことが大きいと思います。
反織田同盟が期待したように、武田信玄が本当に上洛するつもりだったのかという問題は未解決ですが、元亀元年に信長が朝倉・浅井氏に和議を申し出たように、信長の勢力はいずれ衰えると油断していたのかもしれません。

 
同盟諸国も軍事的、経済的諸事情で差がありました。
強大な信長軍には遥かに及ばない三好、六角、松永氏などは和議をちらつかせることによって押さえることが出来ました。また浅井や朝倉氏にしても、連戦による国力の疲弊により、浅井氏や朝倉氏内部に、謀反や嫌戦気分が起こっていったことでもわかるように、長期の持久戦に耐えられる国力は残されていませんでした。畿内の経済圏を押さえた織田家との国力的な差がじわじわと広がっていったためでしょう。


また、以前、将軍義昭や正親町天皇を利用して、浅井・朝倉氏と和睦を結んだように、武田信玄の上洛の動きに際し、反織田包囲網の中心将軍義昭自身を、正親町天皇を通すことで牽制し、和睦を強要するなど、将軍義昭や正親町天皇の権威を最大限に巧みに利用して外交的に有利な地位を獲得しました。これも成功の大きな要因でした。


そして最後に、反信長勢力は、信長が、最も強硬に敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちするなど予想だにしなかったことは確実です。
不利な敵には和睦を求めながら、利を誘った反間工作を繰り返して敵軍内を切り崩し、相手が弱さを見せると一気に力攻めで滅ぼしていきました。反信長勢力は、天下統一のためには手段を選ばないという信長の強い意志力の前に敗れ去ったともいえます。



元亀年間〜天正初年にかけての攻防は、最大の危機の中で、信長の政略家や戦術家としての才能が発揮されてきた時期のように思います。
長々と書いてきたのはそのためですが、次回はようやく長篠の戦いその他です。


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