京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

全体表示

[ リスト ]

前回の続きです。

前回、信長が長篠の戦いで行ったとされてきた、3段撃ち戦法を否定しましたが、
信長が、柵を用いて騎馬隊を防ぎ、機動的に足軽鉄砲隊を用いたということであれば、17世紀のスウェーデン国王グスタフ2世・アドルフの戦術を想起させるものでした。


「グスタフは、小銃兵部隊の完全な連隊を編成し、敵の守備隊や連隊に対する奇襲を行わせた。この新発案こそは、彼を歩兵機動力の開祖と呼ぶにふさわしい」

「グスタフは、小銃兵隊が、騎兵隊に守られていない場合、敵騎兵の襲撃をうけるような緊急の防備用として、先の尖った材木を木柵にして立て、それを楯にして敵騎兵を狙い打ちする方法を生み出した。しかし、暫く後、歩兵にとって火力に次いで最も大切な物が機動力であることを認識するに及び、これらの木柵は小銃兵らが自ら携行するのではなく、縦列が運搬することになった。」(リデル・ハート著「世界史の名将たち」グスタフ・アドルフ)


欧米の研究家が信長に注目したのも、グスタフ・アドルフの戦術改革より40年以上早い段階での、世界初の先例ではないかということだったようです。
そのため、日本人にも信長は世界に先駆けた新戦術の創始者だと礼賛する人もいます。
しかし、これは前回述べたように、否定されるべきだと思います。



前回、信長が長篠の戦いで勝利した理由として、陣地構築と鉄砲をうまく連動させたからではと述べましたが、もしそのようであれば、これ自体も注目すべき戦術といっても良いと思いますが、この戦術を世界で初めて生み出したのが、スペインの名将ゴンザロ・デ・コルドバです。



だから、信長の長篠の戦いは、ゴンザロ・デ・コルドバが1503年に行ったセリニョラ(チェリニョーラ)の戦いの、72年遅れの模倣というのが、最も正しい定義ではないかと思われます。


信長と違って、コルドバは後世に大きな影響を与えました。
その後100年間、ヨーロッパ最強の軍隊として君臨したスペイン歩兵の創設者となったからです。
もちろん、信長はヨーロッパでの先例を知らずに編み出したという意味で、「日本のコルドバ」と呼ばれても良いのではとも思います。


もちろん、これは、信長にとって不名誉なことではありません。
ゴンザロ・デ・コルドバは世界的な名将で、「The Military 100: A Ranking of the Most Influential Military Leaders of All Time」や1アメリカ人の名将100選でも共に、トップ28位にランクされる定評ある人物だからです。


では、話は外れますが、コルドバについてです。


ゴンザロ・デ・コルドバ(ゴンザロ・フェルナンデス・デ・コルドバ)(1453−1515)は、スペイン貴族出身の武将で、ナポリ副王も務めた武将で政治家です。


彼は常に「大将軍」という肩書きで呼ばれます。「大将軍」(グラン・カピタン、グレート・キャプテン、グランド・キャプテン)と尊敬されています。
「大将軍」といえば彼ということになります。スペインでは今でも国民的な英雄の一人です。


彼の肩書きは他にもあります。「塹壕戦の父」「史上最初の近代的な武将」「スペイン歩兵の父」戦史研究家マイケル・ハワードも天才的な指揮官と賞賛します。彼は、敵軍の有効性を素早く取り入れさらに敵軍以上の戦術を編み出しました。


彼は忍耐強く冷静で、肩まで伸びたふさふさとした髪、髭を蓄えた、いかにも名将らしい威風堂々とした人物でした。
ヴォルテールの「ルイ14世の世紀」には、テュレンヌ元帥を、彼に例えています。
テュレンヌは、またアメリカのリー将軍に例えられますので、コルドバの指揮官として資質がわかるかと思います。



コルドバの最も有名な戦いは、チェリニョーラの戦いですが、
「Great Commanders and Their Battles( Anthony Livesey)」ではガリグリアーノの戦いを挙げています。
因みに他の戦例は・・


アレクサンドロスのガウガメラの戦
スキピオのザマの戦
ジンギスカンのインダス河の戦、
ヘンリー5世のアジャンクールの戦
ゴンザロ・デ・コルドバのガリグリアーノの戦
グスタフ・アドルフのリュツェンの戦
テュレンヌのデューンの戦
マールボロのアウデナルドの戦
フリードリヒのロイテンの戦
ワシントンのプリンストンの戦
ナポレオンのワグラムの戦
ウエリントンのサラマンカの戦
リーのチャンセラーズビルの戦
アレンビーのベールシュバの戦
山下泰文のシンガポールの戦
エルヴィン・ロンメルのガザラの戦
エリッヒ・フォン・マンシュタインのクスコフの戦
ウイリアム・スリムのマンダレーの戦
ダグラス・マッカーサーのインチェン上陸戦
モシュ・ダヤンのシナイ作戦      

です。少しマニアックな戦例を集めた感じもします。
 



さて、簡単にコルドバの戦歴を・・

彼の青年時代は、レコンキスタの最終段階でした。
1479年カスティーリアに侵攻するポルトガル軍との戦いに功績を挙げます。
1492年ついにグラナダが陥落し、スペイン最後のイスラム王朝ナスル朝が滅亡。コルドバはこの長期の戦争に従事し戦術を学びました。


その頃、イタリアをめぐり事件が起こります。
1494年、フランス国王シャルル8世が、ミラノのルドヴィコ・イル・モーロらに支持され、アラゴン家のナポリ王フェランテに対し、ナポリ王国はもともとフランスのアンジュー家の領土だったとして、ナポリ王国を要求して自身軍を指揮してイタリアに入ります。(第1回イタリア戦争)
(この時のシャルルのフランス軍は、ヨーロッパで最初の近代的軍隊と呼ばれています。)


これによりフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、教皇領、ナポリなど大国が並立してきたイタリア・ルネサンス諸国の秩序は崩壊。フランス、スペイン、神聖ローマ帝国など周辺大国が常に介入して、数度のイタリア戦争が繰り返されていきます。


さて、1495年シャルル8世のフランス軍はアラゴン領のナポリを占領。
この事態に、スペイン王国のイザベラ女王とフェルナンド5世は、ナポリ奪回を決め、女王の信任厚いゴンザロ・デ・コルドバを指令官に抜擢します。


コルドバ指揮下のスペイン軍は、イタリア半島のつま先カラブリアに進出、勢力回復を図ります
(1495年−1997年コルドバのイタリア戦役)

さて、コルドバは騎兵600と歩兵1500を率いてカラブリアに入りますが、たちまち1495年セミナラの戦で、スチュアール・ドービニー指揮下のフランス軍に敗北します。

コルドバは敗北の原因を研究します。
スペインは数百年の長期のイスラム教徒との戦いで独自の有効な軍隊様式を生み出してきましたがそれは、軽騎兵を主にしてゲリラ戦を得意とした戦闘部隊でした。
敗北の原因は、強力なフランスの重装甲騎兵と、またスイス傭兵の槍兵を中核とする密集戦闘法の優位性のためでした。このまま野戦を戦っても勝ち目が無いと判断したコルドバは、その後はゲリラ戦を展開しながら、自軍を建て直していきます。ドイツ傭兵として槍兵、アルケブス兵(火縄銃兵)を導入しその後数は1万4千に達します。



1497年2月ローマ教皇アレッサンドロ6世は、無能な息子のファン・デ・ボルジア(チェーザレ・ボルジア弟)の作戦失敗で懲りて、コルドバに援助を求めます。
コルドバは、副将プロスペロ・コロンナと共に兵1600人を指揮し、ファン・デ・ボルジアと共に、デッラ・ローヴェレ枢機卿がフランスに委ねたオスティアをあっさり攻略。その後スペインに帰還します。


1499年今度は即位したフランス王ルイ12世がまたもやイタリア戦争を開始します。
1500年、コルドバは、本国のグラナダ反乱鎮圧に成功。トルコ戦にも従事
その頃イタリアでは、1501年7月フランス軍(前衛軍指揮官イブ・ダルグレ、ルイ12世総司令官ステュアール・ドービニー、法王軍チェーザレ・ボルジア)がナポリのフェデリーコ1世をカプアに包囲。
裏切りにより城門開かれ、この際、カプアで略奪事件発生し4千人が殺害され、ナポリ王は王位去ることで和睦します。


この危機で再びコルドバ登場。コルドバのイタリア戦役(1501―1504)です。


1502年末―1503アドリア海岸付近のバルレッタで、コルドバのスペイン軍は、ナポリのフランス副王ヌムール公ルイ・ダルマニャック指揮下のフランス軍の包囲を受けるも戦わず持久戦を展開。その間敵にゲリラ攻撃を加えながら兵力増強を図ります。


1503年4月チェリニョーラ(セリニョラ)の戦い。
コルドバは、イタリア半島の中部アドリア海に近いセリニョラ(チェリニョーラ)で、宿敵ナポリのフランス副王ヌムール公ルイ・ダルマニャックと対戦。


フランスの重装甲騎兵の突撃攻撃に対し、塹壕を掘り、土塁を築いた陣地を構築して待ち受けます。
フランス軍は猛攻するも、堀と土塁に阻まれ突進力が生かせず攻撃が食い止められます。


その間、コルドバの副官ペドロ・ナバロ指揮下のアルケブス兵(火縄銃兵)は、混乱する敵兵に対し、射撃攻撃を繰り返す防御戦を展開します。
ついにヌムール公も戦死し、スペイン軍の圧勝となりました。

これは、騎兵の少ないスペイン軍が重騎兵のフランス軍に勝った初のケースでした。
ここに騎兵絶対主義は終わりを遂げていきます。
この戦闘によって小銃は、戦いの鍵となる威力を持つことが証明されました。
そしてこれ以降、スペイン軍は、積極的に火縄銃を使用、陣地によって火縄銃兵を守る戦闘法の他、槍兵によって火縄銃兵を守る戦闘法を採用していきます。


1503年コルドバ軍は、ナポリの包囲を開始。
6月コルドバ指揮下のスペイン軍は、長期包囲の末に、ナポリを占領。この頃、フランス王ルイ12世はサルッツォ公、ド・ラ・トレモアールの新規部隊をナポリ救出のため派遣。

1503年秋、イタリア中部ガリグリアーノ付近で、フランス、スペイン両軍は対峙し、第1次大世界大戦の塹壕陣地を小規模にしたような陣地で、膠着状態が続きます。
冬が迫り数に勝るフランス軍は寒さのため、近隣に分散宿営しますが、これが失敗でした。


1503年12月コルドバは、ガリグリアーノ川に沿う陣地でついに交戦。河を渡りフランス軍が分散したためできた敵軍横列の弱い箇所を突破して、さらに側面を攻めて撃退します。
1504年1月ガエータのフランス軍降伏し、ここにナポリ王国の帰趨は決定しました。ブロア条約によりフランスがナポリを放棄します。

ナポリはスペイン領となりスペイン王フェルナンド5世が、王位を兼任。
コルドバはこの功績でナポリ副王に任命され、1507年まで務めます。
1504年にはあのチェーザレ・ボルジアが没落し、彼を頼ってナポリに身を寄せますが、コルドバは、スペイン王の命令によりチェーザレ・ボルジアをスペインに送ります。(ボルジアが、スペインで幽閉された後、1507年スペインで義兄ナヴァール王ダルブレに仕え戦死したことは良くしられています。)


1504年のイザベラ女王死後、スペイン王フェルナンドはコルドバの功績を嫉妬しナポリ副王を解任しますが、その後もコルドバがイタリアに送り込んだスペイン軍は、気候の温暖なイタリア南部で、兵士たちに長期の軍事訓練を積むこと成功していきます。


文字数オーバーのため、次回続けます。

この記事に

閉じる コメント(2)

顔アイコン

レコンキスタでアラブから取り戻したコルドバの地名はこの将軍の名前から取ったのでしょうか?
それにしてもローマの虐殺以後のイタリアの列強の草狩場みたいな様相ですね。この頃ですか、アビニオンの幽閉があったのは?

2007/10/25(木) 午後 10:10 [ ciaocommodore ] 返信する

顔アイコン

信長は日本のゴンザロ・デ・コルドバという視点、流石ですね。私は自分のブログで2010年6月にそういう関係性があると思い、掲載させましたが、それよりも早くに気付いている方がいらっしゃるとは・・・。

この記事を見つけ、感激しました。

2014/1/14(火) 午後 9:38 [ - ] 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(1)


.


みんなの更新記事