|
前回、文字数オーバーで、かなり削除しても全文掲載出来ませんでしたので、中途半端な所からです。
さて、コルドバが、イタリア南部に送り込んだ兵士たちは、ここで長期の継続的なプロ訓練を受けました。さらに、本国スペインが、アメリカ新大陸発見により、豊かな財源を獲得したことで安定した兵士や兵器の供給に成功。
これによりスペイン軍は熟練したヨーロッパ最良の軍隊となり、プロスペロ・コロンナ、ペスカーラ候フェランテ・ダヴァロスから、アルバ公フェルナンド・アルヴァレス・デ・トレド、ドン・フォン・デ・オーストリア、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ、サヴァイア公エマヌエーレ・フィリペルト、アンブロシウス・スピーノラ、ヘルツォーグ・フォン・フェリア大公に至る、15世紀から16世紀の傑出した武将たちの活躍を生み出していくことになります。
以上、「世界名将100選中世・ルネサンス編」で取り上げるべき内容でしたが、これで「大将軍」ゴンザロ・デ・コルドバを終わりにしたいと思います。
コルドバは100選に確実に入る名将です。中世以降の最初の近代的な武将であり、戦術改革により、その後のオランダのマウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフ等の先駆者といえる人物でした。
さて話は戻りますが、織田信長他日本の武将に関しては、やはり他国との戦争経験が不足しているため、どのような位置づけになるのかは簡単には判断できません。
日本では戦国時代が収束していく頃、ヨーロッパでは本格的な軍事革命が起こります。ヨーロッパでも所謂名将といわれる人物は、これからの数世紀に集中しています。
有り得ない事ですが、日本がその後も幕末まで、ヨーロッパ並みの数百の戦いを外国勢力と戦うことになれば、本当の戦術革命というようなものが起こり、日本の軍事技術の発展が続いたかもしれません。
織田信長などの軍事的な成功も、模倣されより継続性のあるものになっていたかもしれません。(といっても、逆に植民地化していた可能性が極めて高いわけですが・・。
信長のその後の戦いはもう少し・・・
天正3年(1575)8月、信長は10万以上の大軍で越前の一向一揆平定に向います。
先の伊勢長島の一向一揆との戦いの経験から、信長の一向一揆対策は、動員できるだけの大軍を使い、一気に平定し、根絶やしになるまで殲滅戦を行っています。
信長は、越前に向け8月12日出発。
14日信長は越前敦賀に陣を置き、15日に先鋒の明智光秀・羽柴秀吉を初め、織田軍は越前府中へ侵入開始。先鋒軍は、木ノ芽峠付近の一揆側の防衛線を突破し、たちまち一揆軍を撃破します。
16日信長も敦賀から府中を目指し侵攻し府中竜門寺を攻略。
2日間で府中は町中死体で足の踏み場も無い状態となります。
16日信長、越前国敦賀を出立。17日塙直政・滝川一益・織田信雄・織田信孝・織田信包他に越前国内の残敵掃討戦を実行させ、柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄は鳥羽城を攻略。金森長近らは郡上方面に進撃し、大野郡に進撃。
22日にはほとんど一揆勢を殲滅したため、23日府中から一乗谷へ陣を移動し更に越前国中を捜索し残敵掃討を実施させ、稲葉一鉄・明智光秀・羽柴秀吉・細川藤孝・簗田広正を加賀国へ進撃させ、越前、加賀から、さらに能登・越中方面に進出していきます。
28日信長は、越前豊原へ移動さらに9月2日豊原より北庄城へ移動。加賀の能美、江沼の2郡も平定し、柴田勝家を北ノ庄に置き、府中には前田利家、不破光治、佐々成政を置き勝家の目付とします。
一揆勢力の殺害は3から4万人とも言われます。
この殲滅戦により越前を完全に制圧。10月石山本願寺の顕如はこの情勢に講和を申し出ます。
天正4年(1576)4月石山本願寺との戦争が再開。
5月3日、本願寺一揆勢が数千挺の鉄炮で織田軍を攻撃敗走させます。
一揆勢の追撃を阻止した塙直政ら討死し、天王寺砦を守備する佐久間信栄・明智光秀・荒木村重・三好康長らを包囲。
この知らせで、5日信長は、未明に僅かな手勢で摂津に向い出陣、諸軍が後を追います。
7日信長自らの陣頭指揮により3千ばかりの軍勢を率い本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛け、信長は前線で自ら足軽隊を指揮しました。自身足に鉄砲による傷を負うも、一揆勢を撃破し天王寺砦に入りました。この信長自身の督戦により勝利した戦い以降、本願寺側は野戦から篭城戦に切り替えて言ったともいわれます。
5月毛利氏が織田家に断交し、7月13〜15日毛利水軍が、石山本願寺へ兵粮を運搬し、織田水軍を木津川口で撃破して石山本願寺への兵粮搬入に成功します。
翌天正5年(1577)2月13日から、本願寺側の紀伊の雑賀衆を討つべく、信長自身が、信忠・信雄・信孝ら一族を始め10万以上の軍勢を率いて泉州河内へ方面に出陣します。
2手に分かれ織田軍は、山側から佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重ら、浜側からは滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らが進軍。根来寺衆徒を味方にし一気に攻め込みますが、紀ノ川周辺の防御線で進軍を阻まれ、雑賀城も攻略できず、戦線は膠着状態となります。
結局、何とか3月15日雑賀一揆衆と講和を結び降伏させます。
8月には、上杉謙信が能登に侵攻する動きを見せ、信長は、柴田勝家を大将、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益・稲葉一鉄らを加賀国に派遣します。
謙信は、9月15日能登七尾城を攻略し、23日には手取川の戦いで、上杉軍が織田軍に勝利し、
上杉勢が能登を制圧。
結局、1578年3月に謙信死去。謙信は実は関東侵攻を考えていた説があります。
さて、上杉軍の動きを見て、8月17日松永久秀が、石山本願寺攻囲陣から離脱し大和信貴山城に帰還し謀反。9月29日 織田信長、大和国信貴山城へ細川藤孝・明智光秀・筒井順慶ら畿内の軍勢を派遣し、さらに10月に入ると、織田信忠を大将に、羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・佐久間信盛らが大和国信貴山城を総攻撃し、10日松永久秀を自害させます。
一方、10月から中国地方の毛利・宇喜田氏攻めを開始、羽柴秀吉を総大将として播磨に送り、
11月末、羽柴秀吉、毛利に属する備前の宇喜多直家の七条城(上月城)を攻略し尼子勝久・山中幸盛に守備させます。その後2度の攻防を経ますが占領。
天正6年(1578年)2月、播磨の別所長治が三木城に立て籠もって叛旗を翻し、秀吉は別所側の多くの支城攻めに専念します。
その間、4月18日、毛利の大軍3万が上月城を包囲。
これに対し、5月4日秀吉は1万の軍で上月城救援に向い毛利軍と対峙するも、敵が大軍の為動けず。その間、5月1日信長自身も、播磨国方面への出撃を予定しますが、佐久間信盛らの諫止で中止し、代わりに織田信忠・信雄・信孝・細川藤孝・佐久間信盛らの大軍を播磨国に派遣し別所攻めの戦局打開を図るものの好転しません。
6月16日秀吉は信長の指示を仰ぐため密かに上京し、上月城の尼子氏を見捨て三木城攻略に全力を注ぐよう命令を受けます。6月26日羽柴秀吉は陣を撤収し、三木城攻撃のために平井山に移陣。
29日秀吉軍は織田所軍と共に三木城の完全包囲し、さらび各支城を各個攻略していきます。
その間、7月5日、上月城の尼子勝久は毛利氏に降伏、開城自刃します。
6月、信長が、滝川一益と九鬼嘉隆に建造させていた3門の大砲を装備し、鉄板の装甲を張りめぐらせた大船6艘が完成。(横7間・縦12〜13間の5000人が乗船できる「鉄ノ船」で「テツハウ」が通らない様に工夫がなされていたといいます)
さて、6月26日〜28日、九鬼嘉隆は、新造の鉄船を率いて紀伊国熊野浦に出撃、紀伊国雑賀一揆・淡輪一揆船団を撃破します。
7月18日九鬼嘉隆、新造の鉄船にて大阪湾の海路を封鎖します。
そして、10月12日木津川に於いて毛利水軍を撃破します。
その後も11月にも、大阪湾にで毛利水軍を破り、石山本願寺は毛利氏よりの糧道を断たれ、孤立することとなります。
10月、荒木村重が、敵対していた毛利氏・石山本願寺と結んで信長に叛き、有岡城に籠城し、11月14日織田軍、荒木村重の籠城する摂津国有岡城に攻撃を開始。
天正7年(1579)8月に柴田勝家が加賀一向一揆を制圧し、本願寺側の勢力がまた一つ平定されます。また9月、毛利氏が三木城に兵糧輸送を試みるも、秀吉軍の迎撃にあって失敗。
これにより三木城への兵糧輸送の望みは完全に断たれました。10月頃より包囲網を次第に狭めます。
9月荒木村重も、単身尼崎城に逐電し、城主を失った有岡城は11月に陥落。
天正8年(1580)1月1月ついに三木城陥落し、別所長治自刃。
4月秀吉の中国侵攻が進み、防衛に回った毛利からの援助も途絶え、さらに荒木、別所などが平定される状況で、ついに石山本願寺は、7月17日勅命を受けて和睦し、本願寺顕如は石山を退去。講和に反対していた子の教如も7月17日に講和を受け入れ、ここに10年余りに渡る石山戦争は終わりました。
石山本願寺は、各地の一向一揆と連合して、信長包囲網を形成して信長にとって最大の敵でした。これは一種の宗教戦争であり、天下布武を目指す権力者にとっては必ず克服しなければならない試練でもあったでしょう。
天正9年(1581)1月 信長は、前年9月から徳川家康が、武田側の高天神城を攻めている事に関して、「武田勝頼程度では、高天神城の反撃は不可能であろう見通しと徳川家康の辛労を犒い、一両年内に織田信長自身が駿河国・甲斐国へ出勢すれば制圧できる」と記しています。
長篠の戦い以降、武田勝頼は外交政策を誤り、関東の北条氏政を敵に回したことから、徳川家康の侵攻に対応出来ず、信長にとってはもはや簡単に制圧できる状態になってきていました。
3月高天神城陥落。この時、最後まで援軍を送れなかった武田勝頼の声望が大きく傷つき、翌年の滅亡につながったと良く言われますが、最近は、信長が、家康に敵の降伏を拒絶するように指示した書状が残っていることから、籠城戦を世間に知らしめて、援軍一つ送れない勝頼の評判を落とすために謀略をしくんだとも言われます。
天正9年(1581)7月12日、羽柴秀吉が吉川経家の籠もる鳥取城に到着し、2万余の軍勢により兵糧を経つ包囲作戦を展開。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月で「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となります。ついに10月25日、吉川経家は自刃し開城。
この頃、信長は秀吉に、「明智光秀・細川藤孝以下、摂州衆も準備させているので、秀吉からの要請が有り次第に進軍させる。その上で軍勢は必要なだけ要請し、さらに信長自身も出馬するので油断無く」と命令します。
9月27日信長の命令による伊賀攻め。総勢4万以上の軍で、織田信雄、丹羽長秀、滝川一益、堀秀政、筒井順慶、福富秀勝らが各街道から攻め入り包囲殲滅戦を行い、10月26日最後の砦陥落し終了。
次回に続きます。
|