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いよいよ、アレクサンドロスです。
前にかなり詳細に書いていますので、今回は少なめにします。
アレクサンドロスは即位すると直ちに北方遠征を行い、テッサリア、トラキア、トリバッロイ人、ゲタイ人、イリリュリア人らを討伐、さらに反乱したテーベを破壊します。
アレクサンドロスの大遠征では、ペルシア帝国からアジア、インドで多くの戦いを行っています。グラニコス河、イッソス、ガウガメラ、ヒュダスペス河(ジェラム河)の有名な4つの主要な戦いのテュロスやガザ、アオルノス、マッサバ攻囲戦他数多い攻城戦や諸民族殲滅戦を行っています。
主要な敵としては、もちろん宿敵ペルシア王ダレイオス3世と、その部下のバビロン太守マザイオス、バクトリア太守ベッソス、ペルシス太守アリオバルザネス、アレイア太守サティバルザネス、最後まで抵抗したスピタメネス、またインドのポロス王も良く知られています。
アレクサンドロスの敵の中で、傑出した有能な武将として知られるのは、ペルシア王に仕える傭兵隊長メムノンです。
メムノンはロドス島出身のギリシア人で、兄メントレ共にペルシアに仕え、反乱したエジプトやポイニキア遠征の功績により、メントレが小アジア沿岸最高指揮権を受け、その死後最高指揮権を継承していました。マケドニアのフィリポス2世が送ったマケドニア遠征隊は、フィリポス暗殺後の見通し不透明の中、戦線を縮小し再び海峡周辺にへ後退していますが、これにはメムノンの反撃強化のためでもありました。
では、メムノンがアレクサンドロスとどう戦ったかを確認してみましょう。
前334年アレクサンドロスのペルシア進攻前に、ペルシア側の前線司令官達の作戦会議が開かれましたが、メムノンは、焦土後退戦術を提案します。
しかし自領を焦土とすることに現地太守アルシテスが強硬に反対したことで採用されませんでした、これによりアレクサンドロスは、抵抗を受けることなくヘレスポント海峡越えに成功し、グラニコス河で勝利します。
小アジアに入ったアレクサンドロスはメムノンの領土にも別動隊を派遣して占領を命じます。その後アレクサンドロスは各地を占領し、ミレトスを包囲します。
この時、ニカノル指揮下のマケドニア艦隊はミレトス付近のラデ島を押さえたため、メムノン他のペルシア艦隊はミュカレに停泊し対峙。
アレクサンドロスはこの時、フィリポス時代からの大規模な攻城兵器を東征で始めて使用。
総攻撃にあわせニカノルの艦隊はミレトス湾内に侵入しペルシア艦隊を閉め出します。
これに対し、ペルシア艦隊は敵を外海におびき出す作戦を展開しますがこれには失敗、ミレトスは陥落します。
メムノンはマケドニア軍の次の目標はハリカルナッソスと判断しその補強に向かいます。
アレクサンドロスは経費面と敵艦隊の優勢さに抵抗するのが困難と考え艦隊の解散を決意しますが、後で後悔することになります。
アレクサンドロスは、続く目標ハリカルナッソス攻囲の困難さを考え、先に付近のミュンドスを奇襲占領するため向かいますが、ここも攻略困難と判断し撤退、やはりハリカルナッスに向かい長期の包囲戦が展開します。
ハリカルネッソスでは、メムノンは補強工事をすでに完了し、下部アジアと全艦隊司令官に任命されて傭兵3万を擁していました。
メムノンは防衛戦で軍事的才能発揮し、マケドニア軍を苦しめます。
この時には、アレクサンドロスに破壊されたテーベ滅亡後にペルシアに逃れていたアテナイの将軍エピアルネスやトラシュブロスもメムノン指揮下に参加して全軍必死に戦います。
マケドニア軍は、守備側の総動員での攻撃をなんとか食い止めます。その後、状況不利と判断した守備司令官オロントバテスとメムノンは付近のアルコネソス島要塞とサルマキス岬要塞に撤退します。
アレクサンドロスも激戦のハリカルナッソス占領で一段落させ一旦作戦を中断。その後ハリカルナッソス付近などカリア全域を征服には前333年秋までかかりました。
一方、メムノンは、ギリシアの反マケドニア勢力との連携により、エーゲ海域への大反抗戦展開。
キオス島も占拠、レスボス島諸島を包囲します。
アレクサンンドロスが占領したテルミッソスもペルシア海軍に奪回されます。(ここはその後マケドニア軍のネアルコスが再占領します)
前333年晩春アレクサンドロスは、騎兵指揮官ヘゲロコスに、特別任務を与え、メムノンの海上反抗作戦に対し、艦隊を再建し失われた諸都市キオス、レスボス、コスなど島々を取り戻しエーゲ海域の制海権を確保するという新任務を与え、またアンポテロスにはヘレスポントの海上防衛を命じます。
しかしミレトスも再びペルシア海軍に占領され、アレクサンドロスは悩み艦隊解散を後悔します。
ここで運命が変わります。前333年春夏頃、メムノンが、レスボス島諸島唯一抵抗するミテュレネ攻囲中に急死したのです。
(後任はパルナバゾス、アウトプラダテスで作戦は継続されますが、この頃、ペルシアではこの有効な反抗作戦が、ペルシア王の側近貴族に退けられ、333年夏頃ペルシア王は、パルナバゾスから傭兵を受け取り東方戦線で使用するため移送します。
これによりメムノンの大反抗構想は事実上放棄されることになったのです。そして結局イッソスでペルシア軍は大敗します。)
そしてようやく、マケドニア軍のプトレマイオス(有名な後のソテル1世とは別人)とアサンドロスが、1年近くかかってミュンドス、カウノス、カッリポリス、コス島、トリオピオンを占拠していたペルシア軍のオロントバテスを激戦の末に破り制圧し、ハリカルナッソスもようやく完全占領。
アレクサンドロスは、前332年1月から7月のテュロス攻囲戦ではテュロスに向け突堤を築き、当初テュルス海軍により封鎖妨害を受けますが、メムノンの後任アウトプラダテスのペルシア艦隊から、アラドス、シドン、ビュブロスの各王が離脱しアレクサンドロスに帰属してきたことから、海上封鎖が有利となり、テュロス攻略に成功います。
前332年マケドニア艦隊は、キオス島他を攻略し、もう一人のメムノンの後任者パルナゾスを捕らえます。さらにマケドニア軍のアンポテロスはコス島占領に成功。
こうして、前332年末エジプト滞在中のアレクサンドロスは、部下のヘゲロコスよりエーゲ海作戦の任務達成報告を受け、ようやく安心してペルシアとの決戦にのぞむことが出来るようになります。
メムノンは短期間の活躍で死去したので、評価は難しいですが、名将リストにランクインしたようにアレクサンドロスを最も苦しめた有能な敵でした。 軍事評論家リデル・ハートはスキピオの伝記の中で、名将メムノンの死が無ければ、アレクサンドロスの遠征は失敗していただろうとまで論じています。
さて、アレクンサドロス大王は、名将アンケートではほとんど、世界最高の名将1位に選ばれます。
詳細な戦歴を書きたいのですが、またの機会にします。
アレクサンドロスは、父フィリポス2世が鍛え上げた熟練した軍隊を受け継いでいました。
騎兵を中心とした諸民族混合型のペルシア軍に対する、ギリシアの重装歩兵密集部隊の優位性は、ペルシア戦争以来、キュロスの反乱の際のギリシア傭兵の活躍、アゲシラオスの小アジア遠征等で、実証済みでした。さらに強化されたマケドニア軍を率いるアレクサンドロスは遠征前から勝利を確信していたようにも思います。
そして常に自身が先頭に立ち戦場で勇猛振りを発揮することで、部下に勇敢さの模範を示し兵士も奮闘し勝利を重ねていきました。戦場でのマケドニア軍の死者数が少ないことは、マケドニア軍が鍛えられたプロ軍団だったからでしょう。それでアレクサンドロスは自軍に犠牲者を僅かしか出さなかった数少ない征服者とも評価されます。
イッソス戦後、直ぐにペルシア内部に敵を追跡しないで、シリアからエジプトに至る海岸線を掃討して後方の安全を図った事も評価されています。ヒュダスペス河の戦では、敵を欺く戦術家振りを発揮しました。
アレクサンドロスが、戦場では傑出した勇気と能力を発揮しましたが、戦略家としては幾つかの失敗をしています。戦術家としてのアレクサンドロスの素晴らしさの印象が、戦略家としての彼の能力不足を隠しているという点は良く指摘される所です。
戦場では自制心を失い、一兵士のように戦い、自身重傷を負おったことも有ります。
例えば、グラニコス河ではもう少で勇敢過ぎるアレクサンドロス自身が危うく戦死しそうになる局面がありました。イッソスの戦い前にダレイオスの進路を見誤って危機に陥ったり、海軍を解散してしまったためメムノンの反攻に苦しみました。
ガウガメラの戦いではダレイオスを追撃して後続の部隊を顧みないような行動をとったり、325年マッロイ人の町(ムルターン説他)を包囲した際は、アレクサンドロス自身が先頭に立って城砦の梯子を登り敵陣へ飛び降り一人戦い、慌てて部下のペウケスタス、レオンナトス達が続いて降り敵中孤立の王を救いますが、アレクサンドロスは重傷を負い7日間応急手当を受けることになります。
インド遠征後、部下の反対でこれ以上の進軍を諦めて撤退する際は、60日かけてゲドロシア砂漠約750キロ行軍し、は女子供を含め数万以上ともいわれる死傷者を出しています。アレクサンドロスの晩年は各地では兵士の離反や反乱が相次いでいました。
アレクサンドロスは更に今度は西方に進軍し、カルタゴの征服を考えていたとも伝えられますが、これが実現していたら古代世界はどうなっていたでしょうか?興味はありますが実現していたかは疑問です。
また、アレクサンドロスは実際はやはり暗殺された可能性が高いと思われますが、彼が長生きしたとしても最終的には帝国は分裂したり、暗殺されていたかもしれません。
最後に、アレクサンドロスの軍事的評価をまとめると、
戦場では有能な戦闘指揮官でしたが、衝動的な行動も多く、冷静な戦略家としては未熟な点も見受けられますが、アレクサンドロスが大遠征でその有効性を実証したマケドニア軍による重装歩兵隊と騎兵を組み合わせた戦闘方法は、基本的には近代まで変わらず、彼は基本戦術形式の完成者と言えるかもしれません。そして短期間ではあれ前人未到の世界帝国を築いたことにより歴史上最も有名な英雄として語り継がれることになりました。
次回はアレクサンドロスの武将達〜なんとかローマ初期まで予定。
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