京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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さて、秀吉関係の史跡で、少し気分が暗くなるのは、あの哀れな甥の豊臣秀次関係の史跡です。

夜の街、木屋町通の一角。三条通りとの交差点脇に、忘れ去られたような寺院があります。
寺門脇に、「豊臣秀次公之墓」と記された石柱が建っていますが、気付かない人も多いのです。ここ瑞泉寺には、豊臣秀次とその一族の悲劇の跡が残されています。


少し秀次について・・。


豊臣秀次は、ご存知のように秀吉の実姉智(日秀)の子で、阿波の三好康長の養子となり三好姓を名乗りましたが、後羽柴姓に戻りました。信長死後は、秀吉の数少ない一族として、秀吉の弟秀長と共に秀吉軍の指揮官としての活躍が目立ってきます。
天正12年(1584年)の総大将を務めた長久手の戦いでは、徳川家康軍の奇襲攻撃を受けて大敗しますが、その後の四国征伐や九州征伐、小田原征伐において秀吉、秀長に次ぐ副司令官として活躍。最初は、滋賀の近江八幡を所領としていましたが、天正18(1590年)に、織田信雄が除封された後の尾張・伊勢に転封され、清洲城主として君臨します。天下統一の最後の総仕上げとなった天正19年(1591)奥州の九戸政実の乱を総司令官として鎮圧させ、ついにこの年、嫡子鶴松を失った秀吉に関白を譲られます。



関白となった秀次は、秀吉が築いた京都における豊臣政権の中心地、聚楽第を譲り受け、ここを居城としていました。この頃は、秀吉と秀次の2人が政治を行った二元体制だったようです。対外政策として朝鮮出兵に熱中する秀吉に代わって、秀次は内政を担当、この頃が秀次の栄光の絶頂期でした。秀次の家老の前野長康、山内一豊等々譜代重臣に加えて、伊達政宗、最上義光、藤堂高虎・・大名達も次期天下様に期待し秀次に接近します。



しかし、文禄2年(1593)に秀吉の実子、秀頼が誕生。これにより、秀吉との間に確執発生し、結局、文禄4年(1595)に秀吉によって謀反の疑いをかけられ、高野山に追放されて切腹させられました。
まさに、短かった豊臣政権の束の間の栄光と転落を象徴するような人物です。
秀次は、「殺生関白」と異名を残したように、特に、秀吉との対立が深まるにつれ、ストレスもあって、殺人などの非道行為を繰り返したとも伝えられていますが、事件の真相や秀次の人物像など不明でミステリアスな部分が多いようです。



事件当時は秀吉の報復を恐れ、秀次を擁護することなど出来ませんでしたが、現在、秀次擁護論を唱える人も多く、滋賀県の近江八幡での都市開発の行政手腕なども評価されているようです。
今では、秀次一族処刑と文禄・慶長の役は、多くの歴史家から秀吉最大の愚行とされて、豊臣政権崩壊への原因となったと断罪されています。

写真は、秀次と一族の墓です。
次回も秀次一族の悲劇を補足・・・。

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きれいな写真!

2006/7/19(水) 午後 5:13 [ - ]

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こちらこそ、素敵な風景を楽しませてもらいました。ありがとうございます。

2006/7/19(水) 午後 8:21 [ hir**i1600 ]

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写真のアップと記事内容は日本美術史学会で発表されておられるようです。たくさんコメントをさせていただきましてありがとうございます。最後に高尚な記事を伺いまして失礼しました。これからも宜しくお願いします。ポチ☆彡

2006/12/24(日) 午前 6:38 [ - ]

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リコさん、たくさんのコメントと過分なお褒めをいただきまして、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

2006/12/24(日) 午前 7:40 [ hir**i1600 ]


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