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続きです。
さて、文禄4年(1595)7月、秀次は高野山で切腹しましたが、秀次の首は京都三条河原に運ばれ、その前で秀次の遺児(4男1女)、正室・側室ら39人が次々と処刑されました。
死体は秀次の首と一緒に埋葬され、そこには「秀次悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれました。その姿は、当時の「洛中洛外図」にも描かれているようです。
秀吉は、さらに秀次に譲った聚楽第も破却させるほどで、秀次に仕えていた前野長康(蜂須賀小六正勝の義兄弟)や服部一忠(桶狭間の戦で今川義元を討つ手柄で有名)など10名程が切腹、その他の秀次に縁のある大名や文化人らも監禁される大事件となりました。
さて、秀次一族の塚は、その後鴨川の氾濫などにより流失破壊されてしまいましたが、高瀬川をひらいた豪商角倉了以が、購入した土地を工事した際に、秀次悪逆塚の墓石を発見し、慶長16年(1611)に秀次らの菩提を弔うために、塚があったと思われる場所に、秀次の戒名瑞泉院から名をとった瑞泉寺を建立しました。
寺伝によると現在の瑞泉寺本堂はもとの塚の位置に建立されているということです。
そして境内西南に、修築した秀次の石塔がまつられています。その左右に並んでいる49基の小五輪塔は、連座切腹した部下10人も含めて秀次の妻子39人全員のお墓です。
これは、昭和16年、松下幸之助氏ら大阪の財団法人「豊公会」が、秀次公没後350年記念事業として、妻子・家臣全ての49霊供養のために建てられたものです。
また、地蔵堂もこの時に修復されました。地蔵堂内の(写真中央)の地蔵菩薩は、伝定朝作といわれる平安仏で、秀次一族処刑の祭、四条・大雲院の僧、貞安上人が刑場の一隅にこの木像を運び込み、次々と処刑される子女らに引導を授け続けたとされる「引導地蔵尊」で、極楽浄土へ死者を導くものとして崇敬されてきたものだそうです。
また、左右の脇檀に安置されている人形は、寺宝の「秀次公並びに御一族・三幅」に描かれた女性や子供、殉死した主な家臣の像を写したもので、これも、秀次公没後350年記念事業の祭に地蔵堂の改修と共に造られたものです。
さて、京都の左京区岡崎にある善正寺という小さなお寺には、秀次の墓と、母親の日秀(智)の墓が有ります。我が子の死に加え、夫の三好吉房も秀次事件に連座して讃岐に配流され、出家した日秀は、秀次の死を弔うため、このお寺を創建しました。元々は右京区嵯峨の亀山にあったのですが、慶長5年(1600)に左京区岡崎に移転されました。
日秀が「善正」という名前を寺名に付けたことは、死んでからも、「悪逆」「畜生」と言われる我が子の恥辱をなんとかはらしたいという必死の願いや執念があったと思われます。
子を思う母心でしょうか、日秀は、さらにもうひとつ瑞龍寺という秀次の菩提を弔う寺を上京区堀川に創建したそうですが、江戸時代に焼失、再建され、昭和になって近江八幡に移転したということです。(尚、秀次が自害した高野山にも胴塚が有ります。)
もし、豊臣秀次に失政があったとしても、その妻子までもが野良犬のように殺害され穴に投げ捨てられるというのはなんとも悲惨です。多くが公家や大名家の名家の出身です。なんとも無念だったでしょう。どうも、秀吉が晩年に老衰等から性格異常になっていたことは確かなようにも思われます。(或いは若い頃から、非常な性格を仮面に隠して、鷹揚に振舞ってきたともいわれますが・・)
信長の、叡山焼き討ちや一向一揆弾圧など敵対するものへの非常さよりも、秀吉の、一旦は可愛がっていた自身の一族への無情な振舞いは人間的に理解し難い気がします。
特に、日本人は、罪人でも死んだ後は、その人を憎まずとも言われますが、秀吉は将来まで悪逆塚、畜生塚を伝えようとしたわけですから・・。こういった点で、ある作家は、秀吉は日本人としては珍しく、中国などの独裁皇帝のような性格を持った唯一の人物とも書いていました。
すこし気分がブルーになりましたね。秀吉にはもうしばらく関わりたくない感じです。
次回は、信長の史跡に移ります。
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