京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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法金剛院

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今回は法金剛院です。


法金剛院は、律宗の唐招提寺に属しているお寺です。(そういえば、この前の壬生寺もそうでした。)
関西花の寺25寺霊場会にも入っていて、(京都市内では法金剛院のみ)世界から集められた蓮で非常に有名なお寺ですね。
毎年7月〜8月上旬には、池中や鉢に植えられた蓮の花が境内を埋め尽くしてこの世に極楽浄土を再現した見事さです。今回訪問した時は、少し終わり頃でしたが、なんとか間に合ったようです。また春は枝垂桜、秋の紅葉も美しいです。



お寺の歴史は古く、平安時代の830年(天長7)に右大臣清原夏野が山荘を建立し、その死後、双丘寺(ならびがおかでら)と称したのがはじまりで、境内に花々を植えて、歴代天皇が花を愛でに行幸したそうです。仁明天皇はその美しい景勝から、境内にある山に、五位の位を授けられ、この山を五位山と呼ぶようになりました。
その後、天安ニ年(858)に文徳天皇が定額寺(=簡単に言うと、貴族や僧侶などが建立した寺で、国家により公認されお墨付きを受けた寺)になり、天安寺と称して大伽藍を建てることになります。



その後一時衰えると、大治四年(1129)に、末法思想が広がるなか、鳥羽上皇の中宮、藤原璋子(待賢門院)が、ここに御堂の建立を決め、浄土世界から連想された法金剛院という名前で天安寺を復興します。翌大治五年(1130)に完成した寺院には、五位山を背景にして、中央に池を堀り、池の周囲に御堂を建造した優雅なものでした。



この庭園は、極楽浄土を再現する目的で造園させた池泉回遊式浄土庭園で、庭園の北にある「青女の滝」は、林賢と静意という石立僧が作ったもので、2m近い巨石を並べたものです。(写真では大きさがわかりにくいですが)
当時の書によると、璋子(待賢門院)が、舟で池を渡って御堂へ行く際に、滝を高くすることを思いつき、仁和寺の僧侶、徳大寺法眼静意に五、六尺高くするよう指示したといわれます。同じく仁和寺の石立僧、伊勢公林賢も工事に協力し(彼は、大原三千院の往生極楽院横の有清園の作者とも伝わる人物)完成させます。


庭園は昭和43年(1968)から発掘調査されて、昭和45年(1970)に池を復元、埋もれていた「青女の滝」もこのとき発見され復元されたものです。
現存数少ない平安時代の庭園で、作者が明確であり遺構がそのまま残っている貴重なものとされています。




ここで、この浄土庭園を造らせた藤原璋子(待賢門院)について少しだけ・・・

藤原璋子(待賢門院)は藤原氏の出身ですが、幼少期に父を失い、白河天皇を父代わりに成長します。元永元年(1118年)、17歳で2歳年下の鳥羽天皇の中宮となり、翌年には皇子(後の崇徳天皇)を生み、その後も計五男二女を儲けます。(4男は後の後白河天皇)この若い夫婦に何の問題もないようですが、そうではありませんでした。



鳥羽天皇は、父の堀河天皇が29歳の若さで亡くなったため、5歳で即位し、政治の実権は、院政を布いていた祖父の白河上皇が握っていました。
白河上皇は、女性関係が派手で、平清盛の本当の父親だという説もある人物です。
自分が育て、孫の后にした璋子との間に関係を持っていたようで、皇子(崇徳天皇)の本当の父は、当時66歳の白河だった可能性が極めて高く、当時から上皇の胤だと囁かれていたのです。
当時15歳の鳥羽天皇もそう思っていたようで、祖父の上皇から押し付けられた藤原璋子(待賢門院)に対してどう思っていたかは、その後の歴史が物語ります。鳥羽は、実権を握る祖父を恨みながら、ぐっと我慢していたようです。



保安四年(1123)白河上皇の命で、この不義の子(と鳥羽が考えた)5歳の皇子が崇徳天皇として即位。鳥羽は我が子、崇徳天皇を「叔父子」呼ばわりして忌み嫌ったといわれます。自分の子ではなく、自分の叔父さんだと言っていたのです。鳥羽は自身の臨終の席にも呼ばなかった程でした。



大治四年(1129年)白河上皇が77歳で死去。鳥羽上皇が院政を行います。
彼は祖父の政治を否定し、まず白河上皇に蟄居させられていた藤原忠実を政界に復帰させ、群臣の反対を押し切って、長承2年(1134)、藤原忠実の娘で、39歳という高齢の藤原泰子(高陽院)を皇后にします。これは藤原氏との結びつき強化のための皇后樹立でしたが、年齢的に皇子出産は不可能に近いため、美貌を謳われる17歳の藤原徳子(美福門院)を寵愛します。
徳子(美福門院)は、美貌だけでなく才知にも長けた女性で、鳥羽が唯一心から愛していた女性のようです。



藤原璋子(待賢門院)は、ライバル徳子(美福門院)を激しく憎みますが、鳥羽上皇と藤原忠実は、藤原徳子(美福門院)の女児を藤原泰子(高陽院)の幼女にするなど着々と結びつきを固めていて、彼女や幼帝崇徳にはどうしようもなく、すでに勝負は付いていたのでしょう。



保延五年(1139)徳子(美福門院)に待望の皇子(近衛天皇)が誕生し、鳥羽上皇は大いに喜びます。永治元年(1141)鳥羽は、「叔父子」22歳の崇徳に退位を強要し、わずか2歳の近衛に天皇位を譲位させます。
この年、徳子(美福門院)を呪詛したという騒動が発覚、璋子(待賢門院)の関係者が関与するものだったため、息子の皇位を奪われた璋子(待賢門院)が仕組んだという噂が広がります。こうして宮中の権力を奪われた璋子(待賢門院)は、翌康治元年(1142)に法金剛院において落飾し、3年後に死去します。
彼女の墓は、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠っています。



美貌で信仰心の深かった璋子(待賢門院)を慕う人も多かったようで、
西行は、「なんとなく芹と聞くこそあはれなれ、摘みけん人の心知られて」(芹摘む人とは、高貴な人へのかなわない恋をするという意味)と詠みました。
また、女院の死を知り、「紅葉みて君が袂やしぐるらむ 昔の秋の色をしたひて」と詠んでいます。




長くなりましたので、その後の政治状況に関してはまたの機会にしますが、
藤原璋子(待賢門院)は、白河上皇の死と、鳥羽上皇の院政開始という人生の転機の年、
彼女にとっても人生の暗転が始まった年に法金剛院を造りました。
そこに特別の意味は無いのかもしれませんが、その後の彼女の人生を思うと、彼女に何某かの心境の変化があったようにも想像させられます。




さて、その後の法金剛院は、鎌倉時代に円覚上人が復興するも、応仁の乱以降の戦乱で境内は縮小してしまって今日に至ります。庭があまりにも有名で忘れがちですが、本尊阿弥陀如来、十一面観音菩薩他多くの重文の仏像宝物を持つお寺でもあります。



久しぶりに訪問した感想としては、法金剛院は、夏の朝早い時間帯に、色とりどりの蓮の花を楽しむのがやはり一番かもしれません。(前に蓮の花をご紹介しましたので、今回は庭の全体像です。)
蓮に満ち溢れた池庭を眺めていると、藤原璋子(待賢門院)が夢見た極楽浄土の世界のほんの数%位は感じられたようにも思うのです。

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