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先日、土塀探しに向かった相国寺について少し・・
相国寺では、9月15日から、また秋の方丈の公開が始まるようで、今回は見られませんでした。(方丈、法塔、浴室が見学できます。)また、1年間増改築で休館していた承天閣美術館は、来年5月「若冲・動植綵絵展」で大々的にオープンするそうですが、(これは見たいですね。)
現在「伝来の茶道具展」を一部先行オープンしているようです。
相国寺の公式HPを見られた方は、気が付かれていると思いますが、金閣寺も銀閣寺も相国寺に属している塔頭(境外塔頭ですね)なので、大本山相国寺のHP中で紹介されてるだけで単独HPが有りません。
観光名所的には一見地味な相国寺ですが、世界遺産の銀閣寺と金閣寺を配下に従えるかなりの顔役だというわけです。(^^)
相国寺は明徳3年(1392)に創建され、義満により京都五山の第2位に選ばれた禅宗大寺院として、多くの僧を輩出しました。彼らは五山文学と言われる漢文学を生み出し、また漢文学の発展により、木版印刷の技術も向上。中世文化を盛んにしたのでした。
ここで京都五山について少し・・・
五山というのは、インドの祇園精舎など五精舎に起源を持ち、中国の宋時代に、禅宗の保護や秩序維持を目的に、特に格式の高い五つの寺を五山と定めた制度が、日本に伝わったと言われています。
日本では平安末〜鎌倉初に栄西らが伝えた禅宗は、鎌倉末期には広く幕府の支持を得て大寺院が建立され、北条氏により鎌倉五山が定められました(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)。
鎌倉幕府が滅亡すると、京都の後醍醐天皇が、京都を主、鎌倉を従として、五山を制定(南禅寺、東福寺、建仁寺、建長寺、円覚寺)さらに、京都の大徳寺を南禅寺と並ぶ首位に置きます。
これに対し、室町幕府を築いた足利尊氏は、天竜寺を創建してこれを加え、武家として鎌倉幕府を模倣しながら、鎌倉を主、京都を従として(建長寺&南禅寺、円覚寺&天竜寺、寿福寺、建仁寺、東福寺)を五山とします。
現在の京都五山が定まったのは、足利義満が、自身創建した相国寺を五山に加えるため、南禅寺を別格の五山之上という最高位に昇格させ、京都主、鎌倉従の五山制に再び改めたことによります。
これにより五山は、最高位の南禅寺の下に、第一位=天竜寺、第二位=相国寺、第三位=建仁寺、第四位=東福寺、第五位=万寿寺と変更され最終的な決定となり、江戸時代末まで続きます。
武家政権が禅宗寺院の格付けを決定し統制する体制が定まったということですね。
万寿寺は衰えましたが、他は現在まで京都の代表的な寺院として残りました。
五山の下の十刹は、等持寺(尊氏死後併合により、現・等持院)・臨川寺(現在非公開)・真如寺・安国寺(丹波・現綾部市)、宝幢寺(塔頭の鹿王院が現存)・普門寺・広覚寺・妙光寺・大徳寺(今では五山並のお寺ですね!)・龍翔寺(現・大徳寺の塔頭)が定められていました。
さて、相国寺は、足利義満が創建したこともあり、彼の一番のお気に入り寺院だったように思われます。
しかし、完成からわずか2年後の応永元年(1394)に早くも全焼。義満はすぐに再建させるも、義満死後に再び全焼。応仁の乱以降も焼失を繰り返し、天正12年(1584)に復興されたのが、現存する法堂になります。その後、江戸時代にも火災に遭い、天明8年(1788)の「天明の大火」で法堂以外が全焼。他の伽藍の大部分はその後江戸末の再建ということです。
このお寺がどこか新しく感じ、世界遺産に登録されなかったのはそういう理由なのでしょう。
それでも、大きな堂々とした法堂(以上のような歴史から重文指定。国宝指定されていません)は見事です。周辺の松の木が大きく伸びてアクセントになっています(写真)
「洪音楼」という名で知られる鐘楼は、江戸期の再建ですが、「袴腰付鐘楼」ともいわれ、国内数少ない大型の見事なものです。(写真)
境内には、千利休の孫の千宗旦に化けて活躍した、宗旦狐ゆかりの「宗旦稲荷」、「後水尾帝歯髪塚」など面白い史跡があります。
また、境内西部には広い墓地があり、長州藩長藩士戦亡霊塔(禁門の変の戦死者20名の首塚供養塔)や、藤原定家、足利義政、伊藤若冲の墓が並んでいます。(大体300年程度ずつ時代の違う3人が、仲良く兄弟のように並んでいるのも面白いです)
また保元の乱で知られる藤原頼長の墓と伝えられている五輪塔もあります。
境内の外ですが、すぐ隣りには薩摩藩戦死者墓(禁門の変と、鳥羽・伏見の戦いで戦死した72名の薩摩藩士が合葬)もあります。(少し写真を掲載。)
京都の禅宗寺院の中でも、最も明るく解放的な印象の相国寺の境内。これまで身近過ぎて無視していたのですが、これからは、たまにその清々しさを味わいに訪ねたいと思います。
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