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京都市山科区御陵(みささぎ)にある天智天皇の山科陵に行ってみました。
現在、宮内庁管轄下にある各地の天皇陵には、文献資料的に所在地に矛盾があるものや、考古学的に他に本物の天皇陵である可能性の高い古墳が存在するもの、明らかに違う人物の墳墓である可能性が高いものが多く存在しています。
明治時代の天皇制下に、信憑性の無い古記録を信じたり、不明なものは、それらしい墓を探して天皇陵にしたという程度の、当時の学問的水準で天皇陵を定めたため、今日矛盾が出てくるのは当然でした。
特に古代の古墳時代の第42代までの大規模な天皇陵は2、3以外は全て信憑性は無いようです。
この中で、天武天皇と持統天皇が埋葬された「飛鳥・桧隈大内陵」と共に、考古学的にも文献資料的にも確実な天皇陵とされるのが、この天智天皇の「京都山科陵」です。考古学的には「御廟野古墳」と呼ばれています。
因みに、それ以降の天皇陵も、古墳時代の壮大な厚葬と違って、簡単な薄葬になってからは墳墓が失われ易く、平安時代から室町時代までの天皇陵は、様々な戦乱や都市改造により、どこが埋葬地か不明になったり、陵墓のあった寺院が失われたりしてしまって、醍醐寺が管理していた醍醐天皇陵など幾つかを除くと、宮内庁指定の多くの陵墓は信憑性に問題があるようです。
さて、天智天皇についてです。
現在の日本史の教科書では、重要な天皇として最初に登場してくるのが、大化改新を行った中大兄皇子(天智天皇)ということになります。
古代史に関しては、謎が多く、中大兄皇子が、本当に大化改新の中心人物かどうかという疑問説もあるようですが、次代の天武・持統天皇時代に完成されるとされる、本当の意味での国家的な天皇体制の基礎を築いた人物というのは確かなようです。
天智天皇も謎が多く、大化改新から、なぜ23年間もの間天皇に即位しなかったのか?とか、在位4年での死についても、671年12月3日大津宮で病死・・が通説ですが、暗殺説もあるようです。
暗殺の根拠として、平安時代の「扶桑略記」、鎌倉時代の「水鏡」等によれば、一説として、天皇が馬に乗って山科の里へ遠出して行方不明となり、数日後に履いていた沓だけが見つかったので、その場所に御陵を作ったという話が出ています。この謎の行方不明事件から、暗殺され死骸がどこかに運ばれたといった説も出てきたりするのです。
天智天皇の御陵に関しては、日本最古の現存する正史「日本書紀」には一切の記述が無いのですが、
それにもかかわらず、山科陵が、天智天皇の真の墓所と考えられるのは、
「万葉集」の額田王の歌に、天智帝の山科の御陵が出てきたり、平安時代初期の歴代天皇陵に関する「延喜諸陵式」に、山科山陵が天智天皇の墓所とであると書かれているからです。それによれば、1500m四方という今よりも巨大なものだったようです。
そして考古学的にも、この山科には、古墳時代末期のそれらしい墳墓が他に無いということから、山科陵こそ天智天皇の御陵であることは確実であるとされています。
この天智天皇陵ですが、上円下方墳(正確には円で無く8角形)で、円と方形で構成された古墳時代末期の墳墓です。
墳丘はもちろん現在見ることができないですが、円部分の直径は約40メートル。方形部分は2段に築かれていて、上が一辺46m、下が一辺70mだそうです。
築造年代に関しては不明ですが、御陵の土地が選定されるも、壬申の乱により延期。少し時代が経って世が落ち着いてからの築造というのは確かなようです。
記録では天智天皇の死後28年後の699年に,天智山陵修営官が任命されたということです。
さて、山科陵を訪問してみました。
京都市営地下鉄の御陵駅から三条通りに沿って東へ行くと、木々に囲まれた真っ直ぐな参道が見えてきます。ここが天智天皇陵の入口です。
入口横には、高さ170cmの垂直の日時計の碑があります。
京都時計商組合が、時計組合設立20周年記念の昭和13年に、日本ではじめて水時計(漏刻)を設置した天智天皇にちなんで、ここに建立したものです。
参道の長さは、全体で400m強程でしょうか。真っ直ぐな道が印象的です。
道を進むと、深い森に囲まれた静かな御陵が現れます。
宮内庁が定めている天皇陵の中では、間違いなく本物とされていて、また歴史的にも有名で重要な天皇の陵墓です。
機会があれば、一度行かれても良いと思います。
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