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これまで、京都御苑内の公家の邸跡、神社、史跡等を数回取り上げてきたのですが、
ようやく出尽くしてきました。
今回は、「蛤御門(はまぐりごもん)」からです。
京都御苑周辺は、昔は公家の屋敷が建ち並んでいましたが、この公家屋敷街と市中との境界には9つの門がありました。
その一つの蛤御門は、正しくは「新在家御門」という名称で、常に閉ざされていましたが、宝永の大火(1708年)の際に、初めて開門されたことから「焼けると口を開く蛤」に例えられて「蛤御門」と呼ばれるようになったそうです。中々洒落っ気がある名称だったのですね。
「蛤御門」が有名なのは、幕末の文久三年(1863)に起こった「禁門の変」が、別名「蛤御門の変」と呼ばれているからですね。
この年、「八月十八日の政変」で京都を追放されていた長州藩が、復讐のため会津藩、薩摩藩らを相手に、「薩賊会奸」を唱えて挙兵し、山崎天王山から京都嵯峨付近に陣を布いて会津や薩摩軍と対峙します。結局、戦いは長州軍の惨敗となり、来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎ら多くの人材を失いました。
この戦いは、京都御苑一帯が主戦場となりましたが、最大の激戦地が蛤御門周辺だったことから、「蛤御門の変」とも呼ばれたのでした。現在も当時の弾痕が残っています。
「蛤御門」から真っ直ぐ東へ向かうと、大きな椋の木があります。
京都御苑の中でも、大通りをふさぐように堂々と立っているので、非常に目立ちます。
観光客もここで写真を撮る人が多いようです。またこの木の付近から東には大文字山が見えますので、大文字山の方に、カメラを向ける人も多いですね。
木の傍には「清水谷家の椋」という立て札が有ります。
ここは清水谷家(しみずだに家)という公家の屋敷があった場所でした。そして、この椋の木は樹齢約300年という京都御苑内でも数少ない大椋だそうです。
また「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州藩の来島又兵衛が戦死したのはこの付近ということです。
もう一つ、割と目立つ場所があります。
大きなイチョウの木が目立つ場所で、少し小山のようになっているところです。
ここは「凝華洞跡」です。
幕末期、この辺りは、通称花畑と呼ばれていた場所で、宿所がありました。会津藩主で京都守護職の松平容保は、天皇からのお召しに備えて、ここ凝華洞に泊まっていたということです。「禁門の変(蛤御門の変)」の際もここで指揮をとり、長州軍を破りました。
最後の写真は、史跡では無いのですが、ついでの「出水の小川」です。
京都御苑の南西にある小さな100メートル程の小川で、母子で水にふれあう場として整備されています。地下から汲み上げた井戸水が、深さ数センチの浅い小川となっていて、夏には水遊びをする子供達の人気スポットになっています。
これまで、あまり関心の無かった京都御苑を、この夏から3、4回ほど訪問してみました。
調べていくと、以外に面白い場所があるんですね。
紅葉の頃には、また京都御苑に行って見たいと思います。
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