京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

大原・八瀬・岩倉他

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今回は、岩倉の史跡をたくさん取り上げようと思っていたのですが、万里小路(藤原)藤房という人物に関してばかり書いてしまいました。
いつも以上に読みにくいと思いますが、すみません。




明治時代以降戦前までは、天皇中心の国家体制の下に、様々な歴史上の人物の評価を決めてきました。


後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏、天皇位への野望を抱いたといわれる道鏡、関東で新皇を称して独立政権を作ろうとした平将門、承久の乱で後鳥羽上皇らを流刑にした北条義時などはその代表格ですが、歴代の天皇に対し不敬な行動をとった人物は逆賊とされました。



一方、前にお札になった人物を挙げましたが、聖徳太子、藤原鎌足、和気清麻呂、菅原道真、楠木正成等々、天皇の忠実な臣下として功を成なしたと考えられた人物は高く評価されました。




特に南北朝時代の南朝の忠臣とされた人物の多くは、明治期以降に国家に勲功があるとして位階を贈られ、多くが祭神として神社に祀られたのでした。



後醍醐天皇の子供達・・護良親王、宗良親王、懐良親王、尊良親王・恒良親王。

武将では楠木正成・正季、新田義貞・義顕・義興・義宗、名和長年、結城宗広・親光、楠木正行・正時、菊地武時・武重・武光、児島範長・児島高徳、桜山茲俊、土井通増、得能通綱、村上義光、脇屋義助・義治、足助重範、和田正遠・賢秀、多治見国長、土岐頼兼、富士名義綱・・・。

公家では北畠親房・顕家・顕能・顕信・守親、花山院(藤原)師賢、日野俊基、日野資朝、平成輔、北畠具行、藤原行房、千種忠顕等


今では歴史好きな人以外は一般に知られていないような人物も有りますが、戦前は、国定の小学校の歴史教科書にも登場した人物達も多いです。





さて、岩倉には南朝の忠臣の一人、万里小路(藤原)藤房の遺髪塔が有ります。


万里小路藤房は、かって平重盛、楠木正成と共に、日本三大忠臣の一人にも数えられていた人物でした。平重盛は、父清盛の後白河法皇に対する横暴な振舞いを諌めたため、楠木正成はもちろん後醍醐天皇への忠心を讃えられたためでしょう。


さて、万里小路藤房は、後醍醐天皇の近臣で、北畠親房、吉田定房と合わせて「後の三房」と併称された万里小路宣房の子で、後醍醐天皇に側近として仕えて、鎌倉幕府倒幕計画に参加します。
楠木正成を訪ねて味方に付けた人物でもあり、鎌倉軍に攻められた笠置山から弟の季房と2人で後醍醐天皇を守って脱出した話も知られています。この時捕らえられて流刑になりますが、建武の新政後に中納言として政権に参加します。
しかし新政権に失望して出家、京都郊外の岩倉に隠遁してそのまま行方不明となってしまいました。




太平記では、藤房が後醍醐天皇を諌めるシーンが登場します。

藤房は言います。

戦乱が終息したばかりなのに、政治を行う者らは民衆の疲弊を考えず、日夜管弦など歓楽にふけって政治を疎かにしています。諸国からの訴状も無視されたままで、群臣は陛下にへつらって国家の大事を陛下に申し上げていません。


鎌倉幕府を倒した時、日本国中の者が朝廷の下に結集した理由は、勲功の分け前に預かろうとしてのことです。だから戦が終わった後、自らの忠功を申し立てて賞を望む輩があふれています。
しかし、公家や朝廷に仕えていた者以外にはまだ恩賞が与えられてない状態で、他の者の訴状は無視されたままです。彼らは自分の忠功を無視されたと恨みや不満を抱いて、各自の領地に帰ってしまって、このままでは国家の危機です。




ところが、そんな危機の中で出されたのは大内裏の造営を行うようにとのあきれた命令で、造営費用を諸国から強制して集めるというものです。
また、諸国では守護の権威が失墜し、下級のものが権力を握って、荘園を横領したりしていいます。さらに、諸国の武士の特権だった御家人の称号が廃止されたことで、プライドを傷つけられた者が日本中に溢れています。


また天下を平定した功臣達・・足利高氏、新田義貞、楠正成、赤松円心、名和長年らの忠義や功績は同等で、恩賞や爵位も平等にすべきなのに、赤松円心一人だけは、昔からの領地を与えられただけで、守護職も召し上げられてしまいました。それぞれの功績に応じて恩賞が正しく与えられないとは、これが正しい政治といえるのでしょうか。



さらに、一度下された陛下の御決定が、いとも簡単にころころ変わってしまう有様です。
今もし、武家のリーダーとなれるような人物が登場し、朝廷に逆らうような事を始めたとしたら、どうなるでしょうか。日本中の不平不満を抱いている者らがその下に集まり大変なことになるのは目に見えています・・・



その後も、藤房は繰り返し後醍醐天皇に対して諫言を行うも、聞き入れられません。
大内裏造営工事は中止されることもなく、日々楽しげな宴が行われる状況の中で、藤房は、これだけ諌めたのだから臣下としての務めも果たしたと世を捨てることを決意し、岩倉へ向かい、ここで出家します。




藤房の出家の報せに驚いた後醍醐天皇は、父の宣房をすぐに岩倉に派遣し、説得させようとしましたが、すでに藤房は、岩倉は都に近すぎて俗世間の人が訪問してくるのが厭わしいと、諸国行脚をすると言い残し旅立ってしまった後でした。
この後の万里小路藤房の消息については一切不明ですが、日本各地には彼の遺跡が残っているようです。




建武の親政を批判した万里小路藤房は、勇気ある諫言を行った最も忠義な人物として、三大忠臣にも数えられた存在ですが、戦後の歴史研究によると、政権内部の混乱の中で何んらかの責任をとった形で出家することになったのではと考える人もいるようです。


彼の出家は、建武ニ・延元二年(1335)の前半の事と考えられますが、前年の元弘四年・建武元年(1334)末に護良親王が失脚した件や、建武三・延元元年(1336)1月に彼の父の万里小路宣房と千種忠顕が、親政失敗の責任をとらされて出家している事実などと合わせて政権内部の抗争があったのではとも考えられています。



現在、岩倉にある「万里小路(藤原)藤房遺髪塔」は、もちろん伝説にともなって後世に作られたものでしょう。実相院、石座神社の近くにあるのですが、この史跡を訪れる人は少ないと思います。
しかし、今でも静かなこの地域で、静かに歴史から去っていった謎多い人物について、しばし考えさせてくれました。


今回は私の好きな人物だったので書き込み過ぎましたが、次回は画像を多くアップする予定です。

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閉じる コメント(4)

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はじめまして☆ ステキなブログですね。 わたしはちょっとHなブログはじめました! よかったらわたしのブログ見にきてね♪

2006/10/14(土) 午後 6:39 [ meg*rin*l*ve_19*3*810 ]

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ありがとうございます。また機会があればよろしくお願いします。

2006/10/14(土) 午後 6:46 [ hir**i1600 ]

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じっくり読んで、【そうなんだ】とまた情報を一つ増やしました。ありがとうございます。まだ11月に京都に行くので参考になりました。

2006/10/15(日) 午前 4:58 [ sak*ra8**kik*777 ]

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ありがとうございます。11月の京都はどこも人が多いと思いますが、それでも意外と知られていない穴場はあると思いますので、楽しんでくださいね。

2006/10/15(日) 午前 10:56 [ hir**i1600 ]


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