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いよいよ修学院離宮です。
修学院離宮は、京都市左京区修学院にある、江戸時代初期の後水尾上皇が造った山荘で、上(かみ)、中(なか)、下(しも)の3つの離宮(御茶屋)から構成されています。(尚、修学院という地名は、平安〜南北朝時代まで、この地に修学院という名前のお寺があったからで、お寺の廃絶後も地名だけは残ったそうです。)
簡単に歴史を・・
後水尾天皇は、寛永六年(1629)に明正天皇に譲位し、翌年完成した仙洞御所に入って以後4代51年にわたり院政を行います。この譲位の背景には徳川幕府の圧力に対する反発があったことは良く知られていますが、その後、慶安4年(1651)には突然落飾します。これも幕府に対して自由な生き方を表明する目的もあったようで、その後、後水尾上皇が生涯の最後の情熱を注ぎ込んだのが、修学院離宮の造営でした。
上皇は、修学院から岩倉方面に山荘の候補地を探した結果、この地を選ぶのですが、モデルとして、八条宮智仁親王の桂山荘(桂離宮)を調査しているようです。また、平安時代の嵯峨天皇の嵯峨院(大覚寺と大沢池に遺構)を参考にした可能性も高いようで、嵯峨院と同様に庭園のために川の流れを堰き止めた巨大な人工池(浴龍池)を造っています。
さて、修学院離宮は、江戸時代の明暦元年(1655)から翌年にかけて造営工事が開始され、完成したのは万治二年(1659)・・・わずかの間にこれだけの大規模な山荘が完成した事は驚きだといわれています。離宮は、最初、上(かみ)茶屋と、下(しも)茶屋の2つの御茶屋からなる山荘でした。
この地は、もともと後水尾上皇の第一皇女・文智内親王(梅宮)が22歳で得度して、現在の中離宮付近に円照寺という草庵を結んでいたのですが、上皇は別荘となる条件の良い場所を探した末に、この修学院村が気に入り、円照寺を、奈良の添上郡八嶋の地に移させます。(八嶋御所といわれ、後現在の奈良市に移転)こうして、上(かみ)と下(しも)からなる御茶屋を建設することになります。
当初無かった中(なかの)御茶屋ですが、この場所には、寛文八年(1668)に、後水尾上皇の第八皇女・光子内親王のために朱宮(あけのみや)御所が造営されていました。
その後、延宝六年(1678)に後水尾上皇の皇后の東福門院(将軍秀忠の娘和子)が死去すると、その住まいだった女人御所(仙洞御所の時に出てきました)の建物の一部を移築して拡張します。
そして、延宝八年(1680)に上皇が崩御すると、娘の光子内親王は落飾して、林丘寺(りんきゅうじ)と改めました。
その後、明治十七年(1884)に、林丘寺の境内の内、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となります。
(尚、林丘寺は現在も離宮の中で門跡尼寺として存続しています。臨済宗天竜寺派。非公開です。)
昭和三十九年(1964)には、上(かみ)、中(なか)、下(しも)の各離宮の間にある、8万平方メートルの広大な水田農地を、景観保全のために政府が買い上げて付属農地としています。
次回に続きます。
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この辺りの歴史は本で読み勉強しましたが、この後水尾天皇の係累を見るととても多彩で面白いですね。円照寺関連の記事を書きましたのでTBしときます。山村御流のいけばな展の記事です。後水尾天皇の第一皇女についても言及してあります。
2007/9/28(金) 午後 1:50
円照寺のいけばな展にも興味あります。このお寺は白洲正子さんの本にも出てくるので前から気になっていたお寺なんです。
2007/9/28(金) 午後 8:08 [ hir**i1600 ]
はじめまして
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修学院の事を投稿したらこちらの記事紹介されていまして・・・
霞棚も 棚田も 上手に撮影されているなぁと感心しました。
魅せてもらってありがとう 傑作にポチ。
2009/11/21(土) 午前 3:09 [ tmisatojp ]
ご訪問ありがとうございます。訪問したのはかなり前になりますが、また、その内、再訪問したいですね。
2009/11/22(日) 午後 2:45 [ hir**i1600 ]