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今回は、11月5日に訪問した京都市相楽郡加茂町にある恭仁京跡・山城国分寺跡です。
木津や加茂辺りは、京都府下ですが、京都というより奈良の雰囲気が漂う地域です。
畑が広がり遠くまで見通しが良く、たまにはこういう風景を見たくなります。
加茂町付近は、木津川の流れに沿って、甕(瓶・かめ)のような形のように平野が開けた地勢から瓶原(みかのはら)と呼ばれたということです。
恭仁京は、奈良時代の聖武天皇により、天平十二年(740)に平城京から遷都され、天平十六年(744)わずか4年あまりで廃都にされた都(正しくは大養徳恭仁大宮 おおやまとくにのおおみや)です。
聖武天皇の時代は、長屋王の変(神亀六年・729)、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の病死(天平九年・737)、藤原広嗣の乱(天平十二年・740)と相次ぐ世情不安が続いたことで知られますが、こうした事態を打開するため、聖武天皇は各地を転々として遷都を考えた末この地を選びます。
恭仁京への遷都は、九州で起こった藤原広嗣の乱の衝撃が直接の動機と考えられ、左大臣橘諸兄を担当官として壮大な宮殿が造られて、官人らに平城京からの移転を命じます。
加茂からJR線で4駅京都に戻ると、玉水という場所があり、橘諸兄の旧跡が残っています。この遷都は、この地方の有力者だった橘諸兄の勧めと考えられています。
しかし、造営の途中で、聖武天皇は近江の紫香楽宮に移り、恭仁京の造営は途中で中止されることになりました。こうして、恭仁京はわずか3〜4年の都となり後世に大きな影響を持つことは有りませんでしたが、この地で大仏建立と、諸国に国分寺・国文尼寺を建立することが決定されたことは注目されます。
(尚、その後も、聖武天皇は、滋賀・紫香楽宮から、大阪・難波京と遷都を考えた末、再び平城京へと戻る事になります。)
その後、恭仁京の跡地は、山城国分寺として再利用されました。山城国分寺は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂を中心とした壮大なもので、南北約330m、東西約275mという広大な寺域を持っていたようです。
現在、市民の憩の場所的に使われているこの広大な空き地には、「山城国分寺・恭仁京跡」、「恭仁京大極殿跡」の4つの石碑が立ち、宮殿や塔跡の基壇が残っています。
周囲を塀に囲まれた塔は、の残された基檀や礎石跡から七重塔だったと推定されているようです。
今はただの広い野原で、ここに巨大な宮殿や寺院が建っていたということは中々想像できません。
過去より未来の方が、何でも手に入り豊かだと考えがちですが、実は失われていくものが多いということを感じさせられます。
次回は海住山寺です。
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一度行きたいところです。 失われていくものが多い・・・ですね。最近気になります
2006/11/12(日) 午前 4:52 [ sak*ra8**kik*777 ]
史跡を少し調べると、時代ごとの重層的な土地の歴史が見えてきて、これが結構面白く感じます。この加茂辺りは、束の間だけ日本の首都になりその後、忘れられたように現在に至ります。千数百年の年月の重みを感じます。現在は栄えている都市などもいずれ消え去って廃墟となるのかもしれませんね。
2006/11/12(日) 午後 2:18 [ hir**i1600 ]