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今回は、京都府相楽郡加茂町にある海住山寺(かいじゅうせんじ)です。
このお寺はアクセスが悪いと聞いていたので、以前から後回しにしていたのですが、行ってみたらそれ程大したことはありませんでした。
JR加茂駅からは徒歩で40〜50分、岡崎バス停から30分程かと思います。
山に入ると、傾斜のきつい舗装道路が約1キロ続きます。そのため、自動車で行かれる方が多いようですが、山裾の道幅は非常に狭く、車一台さえ通行できるかという状態です。そこを登っていくと道幅は広くなりますが、傾斜の強い急カーブの坂が連続します。(写真1、2)
私は試しに歩いてみましたが、以前「西国三十三ヶ所観音巡礼」の山寺を、徒歩で走破しているので、これぐらいは苦になりませんでした。最近、足腰を鍛えているためかわかりませんが、意外とあっけなく到着した感じです。
印象的だったのは、猿の大群です。
歩いていると道路の両脇の森から、物凄い声が聞こえてきます。
最初は何かなと思ったのですが、数十匹以上の猿が木の上に登って飛び回っていて、時々道路を横断して走り去ります。カメラを向けようとすると、一斉に逃げます。(襲われる危険性もあったわけですが)
お寺の境内の外れまで猿は出没していました。
さて、海住山寺(かいじゅうせんじ)は、現在は真言宗智山派(京都の智積院を総本山とする)のお寺です。同じく加茂町にある、浄瑠璃寺、岩船寺と並んでこの地域の三名刹というような存在ですが、浄瑠璃寺と岩船寺が、地域的にも雰囲気的にも「奈良のお寺」と扱われることが多いのに対し、このお寺は少し離れているため「京都のお寺」扱いされます。
お寺の創建は、「恭仁京」造営に先立つ6年前、奈良時代の天平七年(735)です。
大盧舎那仏像(大仏)の造立を発願した聖武天皇が、工事の安全を祈るため、良弁僧正にこの地に寺院を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるといわれます。しかし、この寺は、保延三年(1137)に焼失してしまいます。
その後、鎌倉時代の承元二年(1208)、笠置寺の解脱上人貞慶が、この観音寺の跡地に移り住んで草庵を開き、補陀洛山海住山寺と名づけて復興します。解脱上人は興福寺で学んだ優れた人物で、厳しい戒律の元に南都仏教の発展に努めました。
こうして海住山寺は興福寺の末寺として蘇りました。解脱上人の後継者、慈心上人覚心も優れた人物で、寺域の堂宇を整えるなどに努力し、国宝の五重塔も、この時代の建保二年(1214〕に建てられました。その後は大いに栄え、58もの塔頭を持つ程になりますが、天正年間に豊臣秀吉の太閤検地により経済的な打撃を受け、規模を縮小して今日に至ります。
このお寺のシンボルはなんといっても、国宝の五重塔です。
現在、国宝指定の五重塔は全国に9基ありますが、海住山寺の五重塔は、法隆寺、醍醐寺、室生寺(平成12年修復)に次いで古く(鎌倉初期)貴重なものです。
約18メートルの小ぶりな塔ですが、朱色が美しく、初層に裳階(もこし)が付いているのは法隆寺とこの塔のみのようです。裳階(もこし)とは、庇(ひさし)が装飾化したようなもので、本来の屋根の下に造られます。裳階(もこし)があると六重塔のような感じで、華やかな感じがしますね。海住山寺の裳階(もこし)は、長年取り外されていたのを、昭和三十六年(1961)に復原したものだそうです。
今回は五重塔の特別開帳期間だったので、塔内を覗かせてもらいました。
彩色の残る塔内の中央に仏舎利が納められています。初層内部は心柱を天井上に立てていて、心柱が無い仏様の空間にしているのです。これは三重塔では平安後期からあるそうですが、五重塔では日本最古ということです。
境内はそれ程広くないのですが、見晴らしが良く加茂の里が一望できます。
文殊堂は重文指定で、その他本堂には、平安時代に造られた十一面観音(重文指定。現在東博の「仏像」展に出品中)や平安後期の不動明王像、彩色の鮮やかな四天王像(鎌倉時代の作なのに、物凄く綺麗です)、など見所は多く満足できました。特に、ご本尊の十一面観音像は、古風で重厚な味わいが素敵です。境内には他に、鎌倉時代に風呂として用いられた石船などもあります(写真)
海住山寺は、山のお寺ではありますが、加茂の長閑な田園風景と同じく、暗い印象はあまり感じません。
鄙びた里には似合わないような美しい五重塔のせいで、どこか明るく雅な感じもするお寺です。
(実際、五重塔が無ければ、やや印象の薄いお寺といっても良いかと思います。)
五重塔は本当に綺麗で必見です。仏像も素晴らしく、お寺の方の対応も明るく好印象でした。
そういうわけで、一度は訪ねて欲しいお寺です。(訪問した日は、五重塔内部の開帳もあってか、20〜30人の観光客がいて、けっこう賑やかでした)
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