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前に「粟田祭」の時に登場した粟田神社ですが少し補足します。
この神社の石段の下の道は、旧東海道・東山道で、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つ、粟田口があった場所でした。そういう理由で、古来、京都に出入りする際は、この神社で安全祈願する人が多く、今でも旅の守護神として崇敬を集めているようです。
さて、神社の創建には諸説あるようです。
京都市東山区粟田口辺りは、平安京の遥か以前には粟田氏が住んだ土地でしたが、熱田神宮が創建され、粟田一族は熱田神宮の社人として移り住んで、土地名のみが残ったようです。この時に粟田氏の氏神として祀られていた社が、粟田神社の元だとも考えられています。
また、その後平安時代の貞観十八年(876年)清和天皇の時代、当時の病気流行を鎮めるため出羽守神藤原興世が勅を奉じて勧請したのが神社の起こりとも伝えられ、その後、明応九年(1500年)に吉田神道で知られる吉田兼倶(よしだかねとも)が再興したとも伝わります。
現在の建物は、江戸時代後期のもので、拝殿は、元禄16年(1703年)に建てられたもので、本殿、幣殿は文化2年(1805年)に焼失後、文政6年(1823年)に再建されたことが確認できるようです。
かって、八坂神社が感神院と呼ばれたのに対し、粟田神社は、感神院新宮という名前で呼ばれ、そのためか、粟田神社の祭礼「粟田祭(粟田神社大祭)」は、室町時代には祇園祭が出来ない場合は、祇園御霊会の代わりとされていました。
江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社等と呼ばれていた神社は、明治になり粟田神社と改称され、素戔嗚尊(スサノオノミコト)他を祭神としています。
粟田神社の石段の横には、末社の鍛冶神社があります。
この神社は、三條小鍛冶宗近を祀っています。三條小鍛冶宗近とは、京都三条に住む小鍛冶の宗近という意味で、一条天皇時代の実在の人物ですが、その生涯はほとんど不明です。
しかし、後世、謡曲「小鍛冶」により伝説的な刀鍛冶として有名になりました。謡曲「小鍛冶」は、稲荷神の神助により「小狐丸」という名刀を作り上げるという物語で、残された刀剣の美しさと謡曲の影響で、後世に色々な伝説を生んできました。
この東山三条付近は宗近に関する様々な史跡があり、「宗近の井」「焼刃水」といった遺跡や住居跡、宗近が信仰していたとう「相槌稲荷(京都市内に3ヶ所あるそうです。男山八幡、鎌倉にも。)」などがあるようです。
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