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京都市東山区、円山公園の南にある大雲院は、浄土宗の単立寺院です。
普段は事前申し込みが必要のようですが、「京の伝統工芸品展」の催事場として、展望台等が特別公開されているので行ってみました。(12月6日終了)
このお寺は、祇園祭の山鉾のような高い楼閣があるので、付近を歩かれた方は、この建物を見上げられた方も多いと思います。
大雲院は、安土桃山時代の天正十五年(1587)に、貞安上人が、信長・信忠父子の菩提を弔うため、信忠が自殺した御池御所(二条城)の地、二条烏丸に創建したお寺で、寺号の「大雲院」は、織田信忠の法名にちなんでいます。
この貞安上人は、織田信長の命を受けて安土で日蓮宗徒との宗論に勝ち、信長の信任を得ていた人で、後に、「関白豊臣秀次事件」の際、秀次の妻子が三条河原で処刑された際に、処刑前に一人ひとりに引導を授けたと伝わります。
寺は、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の京都整備の計画により、四条寺町下ルに移され広大な寺域を得て栄えますが、天明の大火(1783)、元治の大火(1864)で焼失してしまいます。
その後、明治初期に復興しますが、寺域周辺が商業地化し環境が悪化したため、(現在の四条河原町の高島屋南付近になります。)昭和四十八年(1973)に現在の地へ移転してきました。
大雲院といえば、本堂の後ろに立つ「祇園閣」ですが、そもそも大雲院とは関係が無い建物でした。
この祇園閣は大倉財閥の総帥 大倉喜八郎が自身の京都別邸「真葛荘」に建てたものだったのです。
大倉喜八郎は、明治から大正にかけて、多くの企業経営を行います。現在の帝国ホテル、ホテルオークラ、大成建設、サッポロビール、日進オイリオ等々は大倉財閥を母体とする企業です。さらにその財閥コレクションは、東京の大倉集古館で展示され知られています。
さて、大正十五年(1926)、大倉喜八郎90歳の時、京都に別荘を建設し、さらにその敷地内に展望台を兼ねた高閣を造ろうと考え、設計を平安神宮、大倉集古館など多くの建築を手がけた伊東忠太に依頼します。
こうして完成したのが、別荘「真葛荘」と、「祇園閣」.と名づけられた楼閣です。しかし喜八郎は、昭和二年(1927)の建物の完成後間もなく死去したのでした。
その後、昭和四十八年(1973)に祇園閣の地に大雲院が移築することになり、また「祇園閣」は昭和六十ニ年(1987)に大々的に修復されました。尚、別荘「真葛荘」も庫裡として現在も大雲院で保存使用されています。
さて、祇園閣は、高さ36メートル、鉄筋コンクリート造りの三層建です。
祇園祭の山鉾をモデルに、鉾先には金鶏が取り付けられています。塔の最上階には平和の鐘が架けられ、一層には阿弥陀像が安置されているようです。さらに閣内通路壁面には、中国の敦煌莫高窟に描かれている壁画を模写した壁画が描かれています。昭和初期の完成時には、この巨大な建物に対し、景観をめぐり論争があったのも納得できます。楼閣からは、東山の山麓を一望出来ます。そして楼閣内部は、どこか昔の遊園地のコンクリート施設のような懐かしくもチープな感じがしました。
大雲院を見たかった本当の理由は、祇園閣背後の墓地に、織田信長・信忠父子の供養塔があるからで、前に阿弥陀寺と本能寺の信長の墓(供養塔)を掲載しましたが、それ以来ということになります。(写真)さらに石川五右衛門の墓もありました。(写真)どちらも昭和五十四年に、四条寺町の大雲院墓地より移されたものです。その他、秀吉政権の五奉行だった前田玄以、島津以久(島津家の武将で初代佐土原藩主)、画家の望月玉川、富岡鉄斎の墓もあるようです。また、鐘楼は安土桃山時代の建物で、北野天満宮から移築されたものです。
最後に、「京の伝統工芸品展」の展示・制作実演を少しだけ眺めて大雲院を出ました。
大雲院の前では、工芸展の関係者が大声で客を誘っていましたが、集客率はまあまあという程度ではないかと思います。有名な観光寺院が集まっている東山界隈ですから、この不思議な楼閣のあるお寺は、少し胡散臭く感じる人もいるのではとも思いました。
観光名所として特にお勧めするほどのお寺では無い感じですが、信長や石川五右衛門などに興味の有る方は一見しても良いかと思います。
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