|
京都市東山区にある清閑寺は、普段は訪れる方も少ないですが、紅葉の穴場として知られています。
清水寺の「子安の塔」から10分程杉並木の道を歩くと、清閑寺が見えてきます。
この清閑寺に至る山道は、古くから「中山」と呼ばれていましたが、風景が美しく歌人らがしばしば歌に詠んだことから、やがて「歌の中山」と呼ばれるようになりました。
このような物語があります。
清閑寺の真燕僧都が、参詣に訪れた美女のあまりの美しさに、思わず「あの、清水寺への道はどちらでしょうか?」と声をかけてしまいます。清水寺と参道がつながっている清閑寺の僧なら知らないはずの無い馬鹿げた質問です。その美女は真燕僧都の心が直ぐわかったようで、微笑みながら、「見るにだに迷う心のはかなくて誠の道をいかで知るべき(女性の姿に見とれるようでは、修行の道はまだまだですね。)」と戒めの歌を返しました。
真燕僧都は、自身の未熟さを戒めるために、清閑寺の山号を「歌の中山」にしたとも伝わります。
さて、清閑寺は、平安初期の延暦二十一年(802)に紹継上人が創建した天台宗の寺院でしたが、その後荒廃し、一条天皇の時代(986〜1011)に、伊予守佐伯公行(さえききんゆき)が再興したと伝わります。平安末期には境内に六条天皇、高倉天皇をそれぞれ葬っています。(現在の清閑寺陵・後清閑寺陵)
かっては、法相宗系の清水寺に対抗する天台系の大寺院だったのですが、応仁の乱で荒廃し、(清水寺も焼失しますが、こちらは再興に成功)、慶長年間(1596〜1614)に紀州根来寺の性盛(しょうせい)上人が復興しますが、かっての栄華を取り戻す事は無く、現在、菅原道真が彫ったという本尊十一面観音像を安置する本堂のみが残る小さな寺となっています。
尚、江戸期に真言宗智山派(京都東山七条の智積院の末寺)に属しています。
清閑寺の境内には史跡が多く、「平家物語」に登場する小督局(こごうのつぼね)が23歳で出家し、この地で死去したと伝わっていて、高倉天皇と小督局を供養する2基の宝篋印塔が立っています。また、西郷隆盛が清水寺成就院の月照上人と密かに会合した茶室・郭公亭(かっこうてい)があります。
眺望の良さもこのお寺の魅力ですが、この位置から見ると扇を広げた様に見晴らしが良いという扇の要の位置に当たる要石(かなめいし)も置かれています。(写真)
さらに、この付近は、京都の陶磁器の発祥の地で、聖武天皇の時代に、この地に初めて窯を開いたとされ、この清閑寺窯から清水焼が生まれ、三条の粟田焼と共に京焼の発展を支えることになったのでした。
清閑寺は現在は素朴な小さなお寺で、見晴らしの良さと、紅葉の隠れた名所として知られるだけの存在ですが、歴史的には中々重要な面白いお寺だと思います。
|