京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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霊雲院(東福寺塔頭)

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東福寺の塔頭、霊雲院です。
このお寺は、室町時代の明徳一年(1390)に岐陽方秀(きようほうしゅう)上人によって開かれ、はじめは不二庵という寺号でした。



書院の前庭は、「九山八海の庭(霊の庭)」と呼ばれ、庭の中央に珍しい形の石塔「遺愛石」があります。この石塔がなんとも変わっていますね。
霊雲院の第七世の湘雪守沅上人は、肥後熊本出身で、肥後(熊本)藩細川忠利・光尚父子と親交がありました。寛永年間(1624〜44)、湘雪上人が霊雲院の住職になる時に、細川家は寺禄500石を送ろうとしましたが、上人はこれを断り、「禄高というのは禅修業にとっては悪しきものに過ぎません。庭に置く石を頂ければ、寺宝にしたいと思います。」と答えました。そこで細川家は「遺愛石」と銘を付けて、須弥台と石船を作って贈りました。これが庭の中央に安置されている「遺愛石」です。




「九山八海の庭(霊の庭)」は江戸時代から「遺愛石」のある珍しい庭として知られていましたが、徐々に荒廃し、昭和40年(1965)頃、庭園研究家・作庭家の重森三玲が修復し復活させたものです。「遺愛石」が須弥山となり、それを取り囲む白砂は九山八海(この世は九つの山と八つの海から成り、その中心に須弥山があるという仏教の宇宙観)を象徴させています。

また、書院の西庭は「臥雲の庭」と呼ばれ、ただ無心に渓谷に流れ出る水の流れと、同じく悠々と流れる雲を、茶褐色の鞍馬砂や白砂、枯滝等を用いて表しています。こちらも重森三玲によって復元されたものです。
この庭の北側奥には、太閤秀吉の北野大茶会当時のものを移築したという珍しい二階建ての茶室「観月亭」があります。また、霊雲院は幕末の頃、西郷隆盛が僧月照と密議を交わしたところであり、日露戦争中にはロシア人捕虜の収容所にもなっていたため、捕虜たちが造った楽器が書院ケースに入れて展示されています。「京都十三仏霊場」第三番霊場でもあります。





霊雲院の庭を見たとき、一瞬、これは重森三玲が創作した現代の庭かと思ってしまいますが、重森作庭の特長である「巨石を立てる庭」とは違った趣の庭だと気付きます。
重森は、江戸時代の名所図絵を元にしてこの庭を復原したようですが、好き嫌いはあるかもしれませんが、現代的というか面白い庭です。
霊雲院もそうですが、東福寺の塔頭には、拝観料も安く、観光客も少なくて、静かに寛げる塔頭が多いのでお勧めできます。

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