京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

銀閣寺・哲学の道・南禅寺他

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若王子神社から右手に標高約200メートルの若王子山(にゃくおうじやま)を登ると、「同志社墓地」があります。
山道は整備されていますが、山は深く最近はイノシシが出没するらしく電気を通した防御柵が設けられています。この日は夕方で少し迷いましたが登ってみました。約20分程登ると山頂です。ここに来るのは学生時代以来かと思います。



山頂の墓地には、同志社に関係する三十数名の墓が並んでいます。中心にあるのは、もちろん同志社英学校(同志社大学)創立者・新島襄の墓。すぐ横には八重夫人の墓があります。
生涯病気に悩まされた新島襄は、明治23年(1890)急性腹膜炎で神奈川県大磯にあった宿舎・百足屋旅館で47歳の若さで死去しました。病気が重くなると、かっての門人・徳富猪一郎(徳富蘇峰)、支援者の伊藤博文や渋沢栄一その他多くの見舞客が駆けつける中で遺言を書き記させ、そして、京都から駆けつけた八重夫人の腕の中で息を引き取りました。
最後の言葉は「論語」の「天を怨みず、人を咎めず(自分がどんなに不幸な境遇にいても、決して天を恨んだり、人のせいにしたりしてはいけない)」でした。





その生涯は、キリスト教を邪教として認めない旧弊な社会からの激しい迫害を加えられ続けたものでした。特に「江戸っ子」の新島が、保守的な京都(特に仏教勢力の圧力の強い)にキリスト教学校を創立するには、今では考えられないような様々な苦労があったことは窺い知れます。
しかし彼は信念を曲げず、その志は、伊藤博文、井上馨、大隈重信、陸奥宗光、勝海舟、渋沢栄一といった当時の有力者の支持を得ることに成功し、外国人宣教師らの協力で明治八年(1875)に同志社を創立させることに成功しました。
当時、正式な「大学」は東京にただ一校(それも国立帝国大学(現東京大学)しかなかったという状況の中で、初めて民間の力で、それも衰退し始めていた京都にキリスト教主義の大学を創り上げようという無謀ともいえる構想を実現したのでした。(専門学校令によって大学に昇格するのは彼の死後)また彼の大学構想は単科大学(カレッジ)ではなく総合大学(ユニヴァーシティ)が基本で、新島以前にこのような壮大な構想を考えた日本人はほとんどいなかったようです。
生前に著作が無かったため、その思想が広く研究されて来なかった点はありますが、キリスト教精神に基づく自由教育・自治教会を目指した日本最大の教育者のひとりです。そして子供のいなかった新島は、同志社の男女生徒をわが子と考えて接していたのでした。





さて、新島襄の遺体は、開通したばかりの東海道線の列車で京都(七条駅)まで運ばれ、駅から寺町の自宅まで同志社の生徒が交替で運びました。そして葬儀は、同志社チャペルの前で行われ、葬列には約4千人が参列したということです。葬儀の後、全校生徒たちは師の棺を担いで若王子山頂に運び土葬にしました。「彼等は世より取らんとす。我等は世に与えんと欲す」という徳富蘇峰の依頼で、友人勝海舟が書いた葬送旗を掲げて学生達は師を見送りました。
当初、埋葬地は、新島の父と同じ南禅寺に葬られるはずでしたが、葬儀の段階になってキリスト教を嫌う南禅寺側が厳しい条件を突きつけてきたのです。こうして、キリスト教徒としての生涯を貫くためには、京都市の共葬墓地に変更せざるをえなくなったのでした。当初の木の墓標は、翌年に旧友の勝海舟の筆による碑文が刻まれた鞍馬産の石の墓碑に変えられました。その後、この場所は師を慕う同志社関係者が眠る「同志社墓地」となっていきます。
それから90年以上が経過し、次第に新島の墓碑の風化が進んだため再建が検討されましたが、たまたま昭和六十一年(1986)事故のために崩壊したので、翌年新島ゆかりのヴァーモント州ラットランド産の大理石で建て替えられました。





「同志社墓地」には、新島をはじめ、妻の新島八重(京都初のプロテスタント教徒)や山本覚馬(八重の兄で京都初代府議会議長などを務め、同志社創立の立役者となった恩人)、同じく恩人ジェローム・デービス神父(同志社設立を助け、八重夫人に洗礼を授けた)、門人・徳富猪一郎(徳富蘇峰、墓は多磨霊園他と分骨)その他同志社関係の宣教師たちが眠っています。生前「やえさん」「じょう」と呼び合っていた新島夫妻は今も並んで静かに眠っています。

(写真は、新島襄、新島八重、山本覚馬、徳富蘇峰の墓)

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こんな山奥に同志社の墓地があったとは知りませんでした。新島襄はそうとうな苦労があったのですね。詳しいことは知らなかったので勉強になります^^ディビス神父もここに眠っているとはびっくりです。

2007/1/5(金) 午後 6:41 [ aya ]

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このブログでも書きましたが、昨年の夏に新島襄の旧宅を訪問して以来、お墓にも参りたいと思っていたので、お正月に行って来ました。 学校時代は、創立者にあまり関心が無かったのですが、ようやく彼の苦労がわかってきたようです^^;少し寂しい場所なので女性の一人歩きは止めたほうが良いようです。

2007/1/5(金) 午後 7:19 [ hir**i1600 ]

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TBさせて頂きます♪新島襄の墓地、何だかんだで何度か訪れています。

2007/1/5(金) 午後 9:52 卓

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新島襄は若くして亡くなったので、その評価は難しい所がありますが、調べると中々面白い人物ですね。母親や妹もこの大学を出ているので、もっとお参りに行かなければならないのですが・

2007/1/5(金) 午後 10:06 [ hir**i1600 ]

ですよねぇ。創立者について詳しいのは神学部の人くらいじゃないかなぁ^^;学生もほとんど詳しいことは知らないと思います。キリスト教を教えるための大学ではないですしね。

2007/1/5(金) 午後 10:09 [ aya ]

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あやさん、同志社は、所謂ミッション系とは少し違う感じですね。自由な校風の根底にプロテスタントの精神を据えているんで、布教活動とは違いますね。新島は布教活動と学校教育を完全な一体としてでは無く、車の両輪のような感じで考えていたように言われます。当時は伝道のためのキリスト教学校(狭義のミッションスクール)は抵抗勢力の猛反対を受けて学校設立も出来ない状態だったと思います。新島自身もその点を考えて試行錯誤ももあったのかもしれません。

2007/1/5(金) 午後 11:07 [ hir**i1600 ]

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