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大津市馬場(JR、京阪の膳所駅付近)にある義仲寺(ぎちゅうじ)は、平安末の武将、木曽(源)義仲の名前に因んだお寺として知られ、義仲の墓と共に、俳聖として現在も多くの人から親しまれている松尾芭蕉の墓があることでも有名です。
木曽義仲について・・少し長いです^^;
木曽義仲こと源義仲は、久寿元年(1154)源義賢(為義の次男)の次男として武蔵国に誕生します。
当時、源義賢は、京都周辺の河内源氏の棟梁だった父為義により東国に派遣されて領地を開墾していました。これには、為義の長男の義朝が、父と仲が悪く東国を根拠地に独自に勢力を伸ばしていたという背景があるようで、義賢は兄義朝の東国での勢力拡大を牽制するために派遣されていたようです。
関東での兄弟の領地争いはついに戦いとなり、久寿二年(1155)義賢は義朝の長男義平に館を襲撃され討たれました。父を失った2歳の次男駒王丸(義仲)は武蔵の豪族・斎藤実盛に救われて信濃に送り届けられ、木曽の豪族・中原兼遠に庇護され育てられることになります。兼遠の子の樋口兼光と今井兼平は義仲の股肱の家来として、また娘の巴は義仲の愛妾として活躍することになります。(尚、義賢の長男仲平は摂津源氏の源頼政の養子となり、頼政の乱で養父と共に戦死します。)
その後、治承四年(1180)、後白河法皇の皇子・以仁王が全国の源氏勢力に対し平家討伐の令旨を送り、義仲もこれに呼応し信濃に兵を挙げます。市原の戦いで緒戦に勝利し、さらに横田河原の戦いで越後の城氏を破り北陸路へ進出し、さらに寿永二年(1183)、平惟盛を総大将とする平家の大軍を倶利伽羅峠の戦いで撃破します。
さらに篠原の戦いでも平家軍を破りますが、この時平家軍に加わって戦死したのが、幼い義仲の命の恩人・斎藤実盛で、義仲がその死を嘆いた話は良く知られます。
(尚、平家軍が頼朝や義仲に大敗した原因には当時京都周辺が大きな飢饉に襲われて士気が上がらなかったこともあったようです)
相次ぐ大敗で、平家は慌てて京都から脱出し、その数日後には義仲軍が京都に入りました。
こうして上洛に成功した義仲は、後白河法皇より越後守・伊予守、また「朝日将軍」に任じられます。この頃が束の間の絶頂期でした。
しかし、平家を苦しめたのと同様に、京都周辺は連年の飢饉の影響で疲弊していて、木曽軍に合流してきた諸国の兵士達を養える状態ではありませんでした。このため兵士らは略奪を繰り返し、義仲もこれを止めることが出来ませんでした。また朝廷との関係も急速に悪化し、義仲を京都から追い払おうと考えた後白河法皇の命令で、義仲はやむなく平家を追って山陽道を進みますが、慣れない船戦のため備中の水島の戦いで先鋒が大敗して京都に敗走します。
しかしすでに義仲を見限り、頼朝に通じていた後白河法皇は義仲を受け入れず、再度平家討伐を命じます。ついに義仲は比叡山の僧兵や北面の武士に守られた法住寺を襲撃して破り法皇を捕らえ幽閉します。寿永三年(元暦元年 1185)、義仲は法皇に強要し、念願だった征夷大将軍に任じられますが、この時すでに、頼朝が派遣した範頼・義経軍が近江に迫っていました。
諸国から集まった諸軍も義仲を見限って郷里に帰る者が続出し、叔父の源(新宮)行家のように独立した動きを見せる者もあって、益々兵力は減少します。こうして義仲は僅か1千に満たない小勢で、範頼・義経の5万以上の大軍を迎撃しますが、多勢に無勢で宇治・瀬田の守りはたちまち破れ、義仲も近江の粟津ヶ原で戦死しました。時に31歳と伝わります。平家物語の伝承を信じるならば、頼朝や義経とは違って、色白の美青年だったようです。
義仲寺の起こりです・・・
さて、それから数年が経過し、一人の尼僧が義仲戦死の地、粟津ヶ原にあった義仲の小さな塚の側に庵を結び、日々供養を行いました。名前を語らなかったこの女性こそ義仲の愛妾・巴御前の後身であったという伝承もあり、鎌倉時代の記録によれば、尼僧の没後、この庵は「無名庵」、あるいは「巴寺」「木曽寺」「木曽塚」「義仲寺」と呼ばれていたようです。
その後室町時代には寺は衰退しますが、天文二十二年(1553)、近江源氏の流れをくむ近江守護の佐々木(六角)高頼が、源氏の大将軍でもあった義仲の墓の荒廃を知って諸堂を建てて再興しました。その頃は石山寺に、近世に至って三井寺に属していたようです。当時の寺域は、琵琶湖に面し、現在のJR膳所駅の南の龍ヶ岡の山に至る広大なものだったようです。
貞享年間(1684〜88)に義仲寺を大修理をした記録があり、松尾芭蕉がしばしば境内の草庵を訪れ滞在したのはこの頃からでした。現在は埋め立てにより琵琶湖から距離がありますが、かって粟津ヶ原と呼ばれたこの地は、旧東海道沿いの琵琶湖畔の景勝地でした。松尾芭蕉もこの風景をこよなく愛し、後に芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられました。
明和六年(1796)に蝶夢法師が寺院を中興し、その後も、安政三年(1856)の火災、明治二十九年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治四十五年(1912)にも改修されています。
第2次大戦後には、寺院全域が荒廃しますが、東京の一個人の寄進により、昭和四十年(1965)、三井寺円満院より買い取って、単立寺院として寺域を整備。朝日堂、無名庵、翁堂の修復改築を行いました。 この時期に、境内全域が国の史跡に指定されています。
また昭和五十一年(1976)に無名庵、粟津文庫等を拡大新造しています。
長くなりましたので、次回に続きます。
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木曽軍乱暴事件の真相
源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉を働いたと平家物語などによる通説ですが、これは平家物語やその解説者の捏造(つくりばなし)です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述出来ない。敗者については悪事を強調し捏造して記述される。
1.平家物語や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。
2.平家物語延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。
3.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
4.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の記述がある。
義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
5.「吾妻鏡」には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。
つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉を働いていた。
詳細は「朝日将軍木曽義仲の洛日」
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
2008/4/10(木) 午前 9:28 [ 義仲弁護人 ]