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清浄華院(しょうじょうけいん)は、京都市上京区寺町広小路上る・・前に登場した「源氏の庭」で知られる廬山寺の北の並びにあるお寺です。観光寺院では有りませんが、歴史上の有名人のお墓が多いので訪ねてみました。
清浄華院(しょうじょうけいん)は、一般には浄華院(じょうけいん)、浄山(じょうざん)と呼ばれているようで、浄土宗の7大本山の一つです。(他の本山は、京都では金戒光明寺と知恩寺。東京の増上寺、長野県の善光寺、神奈川県の光明寺、福岡県の善導寺になります。もちろん総本山は、京都の知恩院です。)また「法然上人二十五霊場」の一つ(23番)でもあります。(「法然上人二十五霊場」と言うのは、法然上人の誕生から入滅に至る主な遺跡二十五ヶ所になります。列挙しませんが京都には13寺あるようです。)
さて、清浄華院は、平安時代初期の貞観二年(860)に、清和天皇の勅願により、天台宗の慈覚大師円仁を開山として、京都御所内に禁裏内道場として建立(完成は3年後)したと伝わります。
承安5年(1175)浄土宗開祖・法然上人は清浄華院を宿舎として布教活動に努め、後白河法皇や高倉天皇、後鳥羽上皇らの信仰を集めます。法然上人は後白河法皇より清浄華院を賜り、この時から浄土宗の念仏道場となりました。そういったことで、清浄華院では、法然上人を道場の中興の祖としているそうです。
その後、第四世礼阿上人、そして特に第五世向阿(証賢)上人は大いに布教に努めました。この向阿上人を事実上の開山とする考えもあるようです。その後も、御所内の禁裏道場という性格から、皇室との関係が深く、伏見天皇皇孫の八世敬法大僧正をはじめ皇室から住職を迎えることも多かったようです。創建時の三条坊門高倉(中京区御池通高倉)から、室町時代に土御門烏丸(上京区烏丸下長者町)へ移転しますが、応仁の乱で焼失。現在の地には、天正十八年(1590)秀吉による寺町整備により移りました。江戸時代初期に末寺の金戒光明寺が独立し寺域が縮小します。天明八年(1788)の天明の大火など焼失を繰り返し、現在の建物は、明治二十二年(1889)焼失後、同四十四年(1911)に再建されたものです。
創建当初より皇室との縁が深かったため、本堂(御影堂)には、本尊の法然上人像をはじめ、清和天皇、村上天皇の像、歴代天皇の尊牌を安置しています。
また、不動堂には「身代り不動」と呼ばれる不動明王像を安置しています。「身代り不動」とは、僧証空が師の臨終に際し身代りになろうとしたところ、信仰する不動明王が現われ証空の身代りになって師の病難を救ったという伝説に由来します。寺宝として重文指定の、宅間法眼筆「泣不動縁起(証空絵詞)」、唐普悦筆「阿弥陀三尊画像」等があります。
また、境内墓地にも、江戸時代の皇族の陵墓が多く、宮内省所管の御陽成・後水尾・孝明天皇等の皇子・皇女の御陵墓11基、妙香華院、実相心宮等の各宮家の墓、さらには、立入宗継、玉松操、町田秋波、山科言継、姉小路公知などの歴史上の有名な人物の墓があります。
○立入宗継・・・「時代祭」の「織田公上洛列」の先頭に登場することで知られる室町末期の京都の商人。 御所の貴重品管理を行う禁裏御倉職(みくらしき)に任ぜられ、正親町天皇の命で織田信長の上洛を促した人物。
○玉松操・・・・幕末に活躍した国学者で、岩倉具視の片腕として王政復古策を立案した人物。しかし明
治政府と合わず退官し病死。
○町田秋波・・・江戸中期の千家流の茶人で、名古屋に千家茶道を初めて伝えた人物
○山科言継・・・戦国時代の公家で、財政難の禁裏復興のため織田家など諸大名との交渉役を努めた。
○姉小路公知・・幕末の公家で、尊皇攘夷の急先鋒として有名。御所の猿ヶ辻で暗殺される。
(写真は、立入宗継、玉松操、町田秋波、姉小路公知の墓です。)
皇族の陵墓は立派な造りですぐわかるのですが、歴史上の有名人の墓を探すのはかなりたいへんでした。小さな札があるのですが、広い墓地のあちこちに点在していて、数十分ウロウロしました。
(一応今後訪問される方のために・・・立入宗継の墓は墓地の南側、町田秋波は入口すぐ、姉小路公知、山科言継の墓は北東、玉松操の墓は北にあります。)
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名前は聞いたことがあるような気がします。大本山なのですね。
2007/1/24(水) 午後 10:14
このお寺の名前は、すぐ忘れてしまうので困ります。他にも上品蓮台寺とか三時知恩寺とか、どっちがどっち?の覚え難いお寺があって、場所も勘違いしたりしていました。
2007/1/25(木) 午前 0:11 [ hir**i1600 ]