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京都駅から南側の観光名所はこのブログでもまだあまり登場していません。今後は出来るだけ登場させたいと思っています。
今回は東寺のついでに訪れた、南区壬生通、東寺の西北にある六孫王神社です。
六孫王神社は「京都十六社朱印めぐり」のお寺でもあり、東寺以外に有名観光寺社が少ない南区では、東寺、吉祥院天満宮、鳥羽地蔵(浄禅寺)等と共に注目したい場所だと思います。
神社の主祭神は、六孫王大神(ろくそんおうおうかみ)=源氏の始祖となった源経基(みなもとつねもと)で、相殿に天照皇大御神、八幡大神を祀っています。
源経基(経基王)は、平安時代中期、清和天皇の第六皇子貞純親王を父として生まれ、経基と名付けられましたが、父が六男だったことと天皇の孫ということから「六孫王」と呼ばれていたと伝わります。また元服以降、晩年に臣籍降下し、「源」の性を賜るまでは、「経基王」と称していたようです。(ここでは経基で統一して書きます)
当時は皇族出身でも、藤原氏との縁の遠い者は中央では出世する道は無く、多くの貴族が地方官として地方に下っていました。(時代は溯りますが、平家の始祖となった、桓武天皇の孫・高望王(平高望)が上総介として関東に下り、地方豪族との関係を深め勢力を拡大したように、地方の有力者になる者もありました。高望王の孫が経基の敵となった将門ですね。)
さて、経基は、承平八年(938)に武蔵介に任じられて、同じく武蔵権守に任じられた興世王(おきよおう)と共に、関東へ下向し武蔵国に着任します。このあたりの事は、平将門の乱を描いた軍記物語「将門記」に記されているところです。
着任後、興世王と経基はさっそく巡察と称して、地元豪族で郡司の武蔵武芝が反対するのを聞かず、武装した兵を率いて武芝の領地に入り略奪に及びます。武芝は公務に忠実な評判の良い人物だっただけに騒動の噂は広がりました。それを知って仲裁に乗り出したのが、関東に名を馳せていた隣国石井(いわい 茨城県岩井)の平将門でした。
将門の介入で興世王と武芝は和解したのですが、経緯不明ですが、偶然、武芝の兵が経基の陣を包囲してしまいます。驚いた経基は、将門と興世王が武芝と手を握って自分を討とうとしたのだと深く恨んで、京都を目指して逃げ出してしまいました。
京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を訴えます。
しかし、この時はまったく経基の思い込みに過ぎなかったわけで、将門は関東各地の地方官から無実の証明を得て申し開きをします。これにより経基はまったく面目を失って、讒言の罪で禁獄されたとも伝えられています。
「将門記」では「経基いまだ兵の道になれず」と記されていて、後に武門の棟梁・源氏の始祖となる経基は、まだ武事に慣れない貴公子に過ぎなかったようです。
しかし、その後将門が実際に反乱を起すと、経基は許されて征東大将軍・藤原忠文指揮下の副将として将門追討軍に加えられますが、この追討軍が到着する前に、すでに藤原秀郷と平貞盛が将門を討ち取っていました。経基は戦うこと無く京都に戻りますが、将門の反乱を早くから予測していたということが評価され、戦後の論功行賞では、藤原秀郷、平貞盛に次ぐ従五位の官位を与えられました。
一躍武名が高まった経基は、今度は西国の藤原純友の乱の追討軍に、追捕凶賊使の小野好古の副将として参加、この時も決戦には参加せず、鎮圧後の残党を生け捕りました。この功で正四位に任じられます。
以後、武蔵・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、鎮守府将軍にまで上り詰めて、最晩年の応和元年(961)に「源」性を賜り臣籍降下し、45歳で死去しました。
経基は、才能より幸運に恵まれて名声を得た印象がありますが、後世、文武両道の名将と呼ばれるようになります。
そして最も幸運だったのは、子孫に満仲、頼光、頼義、義家、頼政、頼朝、義仲、義経等々の伝説的な武将を生み、また足利、新田、細川、斯波、畠山、武田、里見、三好、佐竹、山名、今川、土岐、明智、小笠原等(信憑性は無いですが、徳川氏も源氏の子孫と称します)の武家が清和源氏の子孫として栄えた事にあります。こうして「源氏の始祖」として経基の名声は確立しました。
さて、経基は、八条亭(現在の六孫王神社境内)に住居を構え、神社縁起によれば、臨終に臨んで、「死後も龍(神)となってこの西八条の池に住んで子孫繁栄を祈るので、この地に葬れ」と遺言したと伝わります。長子満仲は、父の遺骸をこの地に埋葬し、その前に霊廟を建てて、その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりということで、当初は、「六の宮権現」「六の宮」と呼ばれていたようです。
墓がそのまま神社となったのは珍しいようで、現在も本殿後方に石積の神廟があるようです。
以来、「清和源氏発祥の宮」として、特に武家の時代、鎌倉幕府や室町幕府により手厚く保護されましたが、応仁の乱等で衰退し、その後江戸時代に再建されました。現在の本殿・拝殿等は五代将軍綱吉の時代に再建されたものということです。
六孫王神社の入口には、大きな石標の横に看板のような鳥居らしきもの?があり(もう少し立派な鳥居があっても良いはずですが)庶民的で開放的な雰囲気です。北側のもう少しマシな鳥居を撮影します。(写真)鳥居を潜ると、石畳の道が続いていて、境内中央には「神龍池」と呼ばれる大きな池があり石橋が架かっています。今回訪問した際は、池の水がほとんど抜かれていて、ご住職が池の底をセメントで修理されているようでした。
池の側には経基の子・満仲が誕生した際に、琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願して産湯に使ったという「誕生水弁才天社」があり、毎年6月13日に弁財天の御開帳祭が行われるようです。
また、毎年体育の日には、宝永年間に社殿の再興がなったといことで「宝永祭」とも呼ばれる例祭が催されています。
六孫王神社が最も華やぐのが、毎月4月の桜の季節です。特に、境内中央の神龍池の石橋を渡った参道北側に、「御衣黄(ぎょいこう)桜」という薄い黄緑色の花をつける珍しい八重桜があります。名前は天皇即位の衣装の色と同じ事から名付けられたものですが、普通の桜が散った頃に開花するようです。
また六孫王神社は、かって「六の宮権現」「六の宮」と呼ばれていましたが、有名な物語にも登場します。
今昔物語の「六の宮」、それを題材にした芥川龍之介の「六の宮の姫君」では、自我が無く運命に流されるままに生きて亡くなっていく悲劇的な主人公の姫君が、この神社の側に住んでいました。
また、小泉八雲著の小説集「影」には、「弁天の同情」という不思議な物語が出ています。
江戸時代の青木鷺水著「御伽百物語」から採られた話で、六孫王神社の「誕生水弁才天社」で、美しい女性の字の書かれた短冊を拾ったことから、その娘に惹かれていく若者の物語です。
若者はどうしても未だ見ぬその女性に会いたくなって、弁天堂で祈り続けます。すると弁天堂から稚児が現われ、1人の老人に願いをかなえてやるように言います。老人は暗闇から不思議な美しい少女を導いてきます、こうして若者は少女と結婚するのですが、その後に謎が解明されます。
ある時、若者は道を歩いていて呼び止められます。屋敷の主人が言うには「実は、私には年頃の娘がいて、好いご縁をと弁天様に祈っていた所、夢に弁天様が現われ、もう既に嫁がせてあるというお言葉をいただきました。そして、明日ここを通る若者は優れた青年なので婿になるように頼みなさいとのお告げを受けたのです。」ということです。若者がその娘に会ってみると、それは既に結婚しているはずの自分の妻でした・・結婚していたのはその少女の分身である魂(霊)だったのです。
若者がまだ見ぬ女性を恋い慕う気持ちの強さが、恋われる側の少女の魂(霊)を、肉体から先に抜け出させて若者の元へ導いていたというロマンあふれるお話です。
現在の六孫王神社は、新幹線のガード下近い場所にあるので、周囲の環境は決して良いとは言えません。しかし、一歩境内に入ると、大きな池を中心に落ち着いた雰囲気があり、社殿も立派です。
桜の頃が一番のお勧めで、「六の姫」や「弁天の同情」のような物語を知っていると味わい深いかもしれません。
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