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右京区花園の妙心寺から御室の双ケ岡(雙ケ岡・ならびがおか)に向かいました。
その途中の小さな史跡を少しだけ・・。
今宮神社といえば、大徳寺の北にある有名な神社を思い出しますが、花園にも今宮神社があるのを知ったのは、昨年、法金剛院を訪ねた時でした。こちらは小さな神社ですが、少しだけ寄ってみました。(写真)
この今宮神社は、素戔嗚命(すさのおのみこと)を祭神とする御霊社で、元は花園社等と呼ばれていたようです。平安時代末の三条天皇の時代、長和四年(1015)に託宣により疫病流行を鎮めるため創建されたと伝えられ、この時には疫病を逃れようとした群衆が集まったとも伝わります。その後、後霊泉天皇の永承七年(1052)に再び疫病が広まり御霊会を行った記録があるようです。
その後、法金剛院や仁和寺の鎮守社となりましたが、明治の神仏分離により、厄除神今宮大名神として、現在は花園・安井一帯の産土神となっています。
現本殿は大型の一間社流造で、寛永二十一年(1644)に、仁和寺第二十一世覚深法親王が徳川家光の援助の元に、仁和寺の寛永再興の一連として造営したもので、仁和寺寛永再興の規模を知る上で貴重な遺構ということで、京都指定文化財になっているようです。(尚、現在の建物は、昭和三十五年(1960)、四十一年(1966)、五十三年(1978)に修理されています。)
今宮神社の前には、上西門院(鳥羽天皇と待賢門院の娘、統子内親王)の御陵「花園東陵」があり、さらに、法金剛院の裏山になる西側には、鳥羽天皇の皇后・待賢門院璋子の御陵「花園西陵」(写真)、江戸時代の諸皇子の御陵「仁和寺宮墓地」などがあるようです。
私は、この辺りはあまり知らない地域なので、少し周辺を散策していると、「向阿上人終焉の地」の石標があります。向阿上人・・・このブログに前に書いた、清浄華院の事実上の開祖として知られる鎌倉時代末の名僧、証賢上人(1265〜1345)のことです。この向阿上人の終焉の地は西光庵という浄土宗寺院で、上人の墓があるようですが、観光寺院では無く非公開です。(写真)
さらに双ケ岡中学校の北には、長泉寺があり、門の前に「兼好法師旧跡」の石標があります。(写真)
この地域は双ケ岡(雙ケ岡)の麓になり、吉田(卜部)兼好は、晩年に双ケ岡の二ノ丘西麓に草庵を結んで、「徒然草」を著したと言われ、この石標はその庵跡を示すものです。また長泉寺境内には兼好の墓があります。(吉田兼好は、これまで伊賀で亡くなったというのが通説でしたが、双ケ岡(雙ケ岡)で死去したという説もあり、伊賀で死んだ後、墓を本人が希望した双ケ岡(雙ケ岡)に移したの等も説があるようです。)
それはともかく、双ケ岡(雙ケ岡)西麓辺りあった墓を、江戸時代の宝永年間(1704年頃)にこの長泉寺に移したと伝えられています。また長泉寺には兼好の木造や、直筆の歌集や徒然草が納められています。普段非公開ですが、事前に連絡を取る事で、墓や寺宝を拝見させていただくことも可能なようです。
次回は、双ケ岡(雙ケ岡)です。
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へぇ〜。私も大徳寺の今宮神社しか知りませんでした。関係はないようですね。
2007/2/24(土) 午前 0:59
この今宮神社は知られていないようですね。有名な方の今宮神社は、確か、元の位置から移したときに、前の神社と違う現在の神社ということで「今宮」に改めたという伝承があるようですが、この神社はどうだったのでしょうね。
2007/2/24(土) 午後 2:22 [ hir**i1600 ]