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一見普通の小さな神社なのに、歴史上の人物との関連から観光スポットとして脚光を浴びている場所が幾つかあります。上京区智恵光院通今出川上ルにある、首途八幡宮(かどではちまんぐう)はその代表格でしょう。この神社は源義経ゆかりの神社として知られ、義経ファンが訪れる場所です。
神社の祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)、比賣大神(ひめのおおかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)になります。また、現在は末社に弁才天を祀っています。
首途八幡宮の創建年代は不明ですが、この地域が、平安京の大内裏の東北に位置するため王城鎮護の神として、宇佐八幡宮を勧請したのがはじまりと伝えられ、何時の頃からか「内野八幡宮(うちのはちまんぐう)」と呼ばれていたようです。
また、元々この地は平安中期の桃園親王(貞純親王)の邸宅跡とも伝わります。桃園親王(貞純親王)は、清和天皇の皇子で、源氏の始祖となる源経基の父としても知られる人物です。親王の邸宅には、桃の木が植えられていたことから、桃園親王と呼ばれたようで、神社の由緒書よると、平安時代中期の王朝文化が盛んな時期、池や築山がある広い境内には、春には桃の花が咲き乱れて、稚児舞いが奉納され多くの参拝者があったと伝えられています。ただ、その後は恐らく衰退していったのでしょう。平安時代の末〜鎌倉以降、荒廃していった平安京内裏跡が「内野(うちの)」と呼ばれていたことを考えると、内野八幡宮という名称は、平安時代末以降になって呼ばれた名称ということかもしれません。
さて、義経伝説に関してです。
平安時代末には、この地に奥州の商人・金売吉次(かねうりきちじ・金売橘次)の屋敷があったと伝えられます。金売吉次という人物は、源義経を奥州平泉の藤原秀衡のもとへ導いた商人として知られます。実在の人物というより、義経伝説が伝承していく過程で、奥州の金商人達の全体的なイメージから一人の金売吉次という架空の人物を生み出していったと考えられています。義経が奥州へ向かうための動機付けとしては、このようなキャラクターが必要だったのでしょう。
他にも、義経に剣術を教えた陰陽師・鬼一法眼、奥州行きの途中で義経に殺された盗賊・熊坂長範、家来の武蔵坊弁慶と常陸坊海尊など、義経伝説には架空(或いは実在するとしても、勝手にイメージが一人歩きしている)の人物が大活躍し、金売吉次も含めて、義経伝説には必要不可欠の脇役になっています。こういった脇役達が義経の人気をさらに高めているようです。
話は戻りますが、承安四年(1174)頃、源義経は16歳で鞍馬山を出て、金売吉次に伴われて奥州の藤原秀衡のもとへと旅立ったと伝わりますが、その際に、この八幡宮にに参詣し旅の安全と武勇の上達を祈願したということです。
「首途」とは「出発」の意味で、この由緒により、内野八幡宮は、やがて首途八幡宮と呼ばれるようになったということです。そして、今も旅の安全や厄除けの神として信仰を集めているそうです。
一説には、源氏の先祖の桃園親王(貞純親王)の邸宅跡から、いつしか源氏のヒーロー義経伝説に関連付けられていった史跡とも考えられているようですが、確かに、近代までのほとんどの史跡は史実より伝説に基づいているものが多いでしょうね。(尚、首途八幡宮のお守りとしては、源義経ゆかりの奥州平泉の砂金にちなんだ金泥で「首途八幡宮」と書かれたものや、八幡神の神使としの鳩のお守りなどがあるようです。)
さて、首途八幡宮は間口の狭い神社ですが、参道は長く、途中に近年に建てられた「源義経奥州首途之地(みなもとのよしつねおうしゅうかどでのち)」の石碑があります。(写真)
さらに進むと、狭い境内に二つの鳥居があり、右が八幡宮、左が末社・弁天社になります。拝殿は石段を登った少し小高い場所にあります。この神社は江戸時代以降も火災に遭い焼失を繰り返した様で、現在の社殿は昭和四十年代の再建のようです。
また、この神社が狭く細長い敷地にもかかわらず、暗い印象が無いのは、左(南)が古書チェーン店の駐車場、右が(北)広い公園だからです。この公園は桜井公園といって、公園内には、小川が流れ西陣の五名水(染殿井・桜井・安居井・千代井・鹿子井)と呼ばれた桜井が復元されて、地域の憩いの場になっているようです。(写真)
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