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上京区・下立売通天神道西入行衛町にある竹林寺は、この前に書いた華開院のすぐ側、宝輪寺(達磨寺)の向かい側にある小さなお寺です。宝輪寺(達磨寺)のついでに書いても良いようなお寺ですが、平野国臣をはじめとする六角獄舎殉難志士37士の墓があり、幕末ファンは必見の場所なので単独で書いてみます。
赤門が特徴的な竹林寺は、浄土宗西山禅林寺派に属し、弘安二年(1278)年、後宇多天皇の頼願により、顕意道教上人により創建されたといわれる古刹ですが、その後数度の火災に遭い、古記録類を焼失してしまったために、それ以上のお寺の由来については詳細不明ということです。
明治以降の廃仏毀釈の時代にほとんど宝物も四散し、今は山門右上の2階にある新しい観音堂に木造十一面観音像(藤原時代初期以前)が安置されているのと、六角獄舎殉難志士之墓があるのみです。また乾第十五番札所ということです。
さて、福岡藩出身の平野国臣(1828〜64)は、脱藩し京都で尊王攘夷運動に奔走しますが、但馬の生野(いくの)の変を起して敗れ、捕らえられて六角獄舎に繋がれます。
ところが、元治元年(1864)七月の蛤御門の変(禁門の変)による戦火の中で、囚人が逃走するのを恐れた幕吏は、未決のままで、六角獄舎に繋がれていた平野国臣ら生野の変の同志、天誅組の水郡善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名その他勤皇志士を斬首しました。こうして、平野国臣は「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詞を詠み37歳の生涯を終えたのでした。
その後、明治十年(1877)に、化芥所(けがいしょ,ごみ処理施設)となっていた西ノ京刑場址(西ノ京円町付近・西大路太子堂一帯)から、姓名を朱書した瓦片とともに多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で処刑された平野国臣ら37名の勤皇志士の遺骨と確認され、改めて竹林寺に移葬され、明治四十三年(1910)に追善供養が行われ墓碑が建立されました。
現在竹林寺にある「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」には義性となった37名の遺骨が合葬され氏名が刻まれています。
○生野(銀山)義挙関係五士
平野次郎国臣(37才、備前)、横田友次郎靖之(31才、鳥取)、木村辰之助包房(不詳、鳥取)、本多子小太郎素行(45才、善所)、片山九市春量(37才、丹波)
○天誅組大和義挙関係十六士
水郡善之祐長雄(34才、河内)、長野一郎寛道(26才、河内)、田中楠之助祐信(22歳、河内)、原田亀之助一作(原田喜太郎一作・30才、備中)、吉田重蔵良秀(35才、筑前)、乾十郎嗣龍(37才、大和)、中倉才次郎(25才、土佐)、幸助(古東僕幸助、常助、22才、紀伊)幾助(古東僕幾助、鶴松 25才、紀伊)、森元伝兵衛勝定(31才、河内)、辻幾之助同茂(30才、河内)、保母鉞之助建(保母健景光 23才、備前)、石川一貞幹(22才、鳥取)、古東領左衛門需(46才、淡路)、木村楠馬(24才、土佐)、船田彦次郎貞光(不詳、鳥取)
○池田屋事件関係八士
古高俊太郎正順37才(近江)、今井(津)三郎右衛門有忠46才(但馬)、佐藤市郎(不詳、山口)、吉田五郎(25才、越前)、山田虎之助彪(23才、長州)、内山太郎右衛門直一(22才、長州)、村上俊平(27才、上野)、南雲平馬(29才、上州)
○その他の事件関係八士
河村能登守秀興(45才、京都)、横田清兵衛順宜(俵屋 31才、京都)、長尾郁三郎武雄(足利三代将軍木像梟首事件、28才、京都)、吉川菊松(治)(39才、京都)、丹羽出雲守正雄(31才、近江)、川勝寛治(35才、園部)、厳徭坊佐々木織江(厳徭坊亮親 49才、豊前)、教観坊藤山衛門(34才、豊前)
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六角獄舎殉難事件を78歳になって初めて知りました。牢獄に火災が広まるなか、囚人と思われる高貴な志を持った人物を斬り殺すことは断じて許されない行為です。西郷隆盛はこのことを肝に銘じて反省したのか。幕末、敦賀で如何なる理由かは判然としないが水戸脱藩藩士が多数惨殺された事を思い出す。禁門の変・蛤御門の変を更に詳しく知りたい。付け加えることになりますが2017/04/16のラジオ放送大学では1864年禁門の変により京都市内の家屋が広範囲に焼失したことが詳しく放送されました。
2017/6/26(月) 午後 3:04 [ kadobe ]