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上京区の大宮通芦山寺上る西入る社横町にある小さな神社が、檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)です。
社伝によれば、貞観元年(859)に文徳天皇の皇后明子(藤原明子・染殿皇后)が安産を祈って春日神を勧請したのが始まりとされ、その後、伊勢・石清水・賀茂・平野・松尾・稲荷という最っとも重んじられた6神を加えて「七の社(ななのやしろ)」と称したと伝えられます。
また付近の地名である紫野・上野・蓮台野・萩野・北野・平野・内野の「七野の惣社」として祀ったとも言われ諸説あるようで、現在は、春日大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)他21神を祀っているようです。この辺りは賀茂社(上賀茂、下鴨神社)に奉仕した斎王の紫野斎院の跡だったと言われ、斎院に関係する社だったと考えられています。その後荒廃し、豊臣秀吉によって再興されました。本殿基壇の石垣には、この時修復に参加した諸大名の寄進印とされる家紋等が刻まれています。
神社の境内には、賀茂斎院跡の顕彰碑と解説板があります。
奈良時代以降、天皇が即位すると未婚の内親王(または女王)の中から、卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占い儀式により、「斎王」が選ばれ伊勢神宮に奉仕することが制度化していましたが、同様に平安時代には、賀茂社(上賀茂、下鴨神社)に奉仕する斎王も制度化します。斎王が身を清めて住んだ御所は、伊勢の場合は「斎宮」、賀茂の住いは「斎院」と呼んでいます。
顕彰碑と解説板を参照させてもらって書いてみます。
この檪谷七野神社を含む周辺地域は、平安時代から鎌倉時代にかけて、賀茂社に奉仕する斎王の住まい「斎院」があった場所で、この付近が平安京の北方で「紫野」と呼ばれていたため「紫野斎院」とも呼ばれました。この斎院の敷地は、安居院大路の北(現在の大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し約150m四方の敷地があったそうです。
賀茂社の斎王は、弘仁元年(810)の嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王を初代とし、歴代未婚の皇女が卜定されましたが、伊勢神宮の斎宮と違って、天皇の崩御や譲位があっても必ずしも退下しなかったようです。
斎宮は内院と外院で構成され、内院には神殿、斎王の起居する寝殿等が有り、外院には斎院司、客殿、炊殿等があり、斎院全体で約500人の官人や女官が仕えていました。
毎年の賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行し両賀茂社に参拝しました。斎王のみは上賀茂の神館に宿泊し、翌日にまた行列で斎院に遷御しましたが、これを「祭の帰(か)えさ」と呼んで、洛中の人々の見物の対象となっていたそうです。
また、斎院には、選子(のぶこ)内親王、式子(のりこ)内親王のように優れた歌人もあり、お付の女房にも才媛が多く、しばしば歌会が行われたようです。
さて、こうして代々の斎王は、斎院で清浄な生活を送り、その後約400年間この制度は続いていましたが、後鳥羽天皇の皇女で、第35代斎王の礼子(いやこ)内親王をもって断絶してしまいます。
礼子内親王は病気で建暦二年(1212)に退下し、以降は財政的な理由から斎院は廃絶されたということです。斎院の廃止後、その跡は隣接していた廬山寺山内に取り込まれましたが、応仁の乱の後、豊臣秀吉の時代に廬山寺も寺町に移り、斎院跡の所在地も不明となってしまいました。
近年、古代学協会の研究により、現在の神社周辺地と推定され、平成十三年(2001)に賀茂斎院顕彰会により顕彰碑が建てられました。以来、斎王代発祥の地として再び脚光を浴びた檪谷七野神社は、葵祭に先立って毎年の斎王代に選ばれた女性が、下鴨、上賀茂両神社と共に神前に斎王代を務めることを奉告する重要な場所になっています。
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