京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区七本松通仁和寺街道上る一番町にある立本寺(りゅうほんじ)は西陣のほぼ中央に位置する大きなお寺です。これまでも、隠れた桜の名所という感じのお寺が幾つか出てきましたが、立本寺も桜の名所として知られます。また、本堂前には80種類80本もの蓮の鉢が並べられていて夏場もお勧めです。




さて立本寺は、妙顕寺、本圀寺(以上、大本山)、妙覚寺、本法寺、本満寺、頂妙寺、妙傳寺と並ぶ日蓮宗京都八本山の一つで、具足山と号し、大本山妙顕寺、本山妙覚寺とともに三具足山と呼ばれています。(尚、この八本山は、狭義の意味での「日蓮宗」ということです。このブログでも色々出て来ましたが、その他京都には法華宗等各派の本禅寺、本能寺、本隆寺、妙満寺、妙蓮寺、宥清寺、要法寺、實光寺の八本山もあり、合わせて京都十六本山と言います。)

創建に関しては諸説あって、日蓮上人の孫弟子・日像上人が妙顕寺を創建した時点をそのまま創建とする説と、後に妙顕寺の跡地に日実上人が新しく本応寺を建立したことに始まるという説があり、その時期に関しても諸説あるのですが、両説合わせた流れで書いてみます。

妙顕寺が創建された時点に溯ると、鎌倉時代末の元亨元年(1321)に日像上人が京都最初の道場として四条大宮(四条櫛笥)に開いた妙顕寺竜華院を始まりとします。
宗祖日蓮上人の遺言により、僅か13歳の日像上人は、「帝都弘通(ていとぐずう・京都での布教活動)」という大事業を遺嘱されます。仏教各宗派の勢力の強い京都での布教活動は、非常に困難で、数々の迫害に遭い何度も追放を受けながら、日像上人は妙顕寺を拠点に布教活動を行い、徐々に信徒を増やすことに成功していきます。(妙顕寺については別途書きたいと思いますので、妙顕寺と分裂して立本寺が誕生したという経緯から簡単に書きます。)

妙顕寺は、その後もしばしば比叡山延暦寺の攻撃を受けますが、四世日霽上人の時代、天寿四年(永和四年 1378)、内部対立から妙顕寺から離脱した日実上人が、明徳四年(1398)四条櫛笥に再建し「立本寺」と改名したとされます。(これが一応、正式な創建時期とされています。)
また、時期に関しては、応永二十年(1413)頃、五世具覚月明上人の時代、再び比叡山の衆徒の攻撃を受けて妙顕寺は破却され、月明上人が丹波へ避難している間、京都に留まったら弟子達が、応永二十二年(1415)に四条櫛笥の妙顕寺旧地に本応寺という寺院を建立したのが始まりともいわれ、その後月明上人が帰洛し、五条大宮に妙本寺(後に寺号を妙顕寺に戻す)を再建して両寺は対立することとなり、本応寺は比叡山の末寺という形で、立本寺と改称し分立したともいわれます。(比叡山の末寺というのはあくまで独立の口実と考えられているようです)このように、創建に関して諸説あるため、沿革を書くのが難しいお寺です。

その後、立本寺は法華宗の洛中二十一本山の一つとして栄えますが、天文五年(1536)の天文法華の乱でまたもや比叡山延暦寺の攻撃を受け破壊され、堺に逃れます。その後帰洛し、文禄三年(1594)に豊臣秀吉の都市改造により、寺町(京極今出川)に移転しますが、江戸の宝永五年(1708)の「宝永の大火」により焼失し、現在地へ移転再建されました。明治維新前は20の塔頭がありましたが、現在は正行院・教法院・光源院・大輪院の4院が残るのみです。





さて、立本寺の境内の約4〜5分の1は児童公園(立本寺公園)になっていて子供達の遊び場になっています。公園を除いても境内は広く、本尊十界大曼荼羅を祀る本堂(享保三年(1743)建造)、刹堂(鬼子母神堂 文化八年(1811)建造)、祖師堂、方丈等が立ち並んでいます。この内、本堂・刹堂(鬼子母神堂・客殿・鐘楼・山門(総門)が京都市指定有形文化財となっています。
特に、安産・子育て祈願で有名な子安鬼子母神(ご開帳は毎月8日)は「北野の鬼子母神さま」と親しまれています。
また、寺宝も多く、鎌倉時代の「紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図」、平安時代の「法華経并観音経」は重要文化財に指定されています。

庭園は、第五十世住職の日到上人により、天保十四年(1843)から嘉永三年(1850)の間に作庭されたもので、池を掘らずに築山を数多く築き、枯滝を配した江戸時代末期の記録の残る名園ということで、京都市指定の名勝に指定されています。この庭園は、長年荒れていたものが修復され、昨年秋、初めて特別公開されました。(多分、今年も公開されると思われます。要チェックです。)

また墓地には、江戸初期の豪商で島原の名妓として知られた吉野太夫の夫・佐野(灰屋)紹益の墓(写真)をはじめとする佐野一族(佐野瑩庵は確認できました)の墓や、石田三成の家臣であった島左近の墓があることでも知られています。





長くなりますが、島左近に関してだけ書いてみます。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた島左近清興(友之・勝猛等)は、司馬遼太郎著「関ケ原」等の小説で伝説的なヒーローの1人として描かれることが多く、関ケ原で華々しく感動的な最期を遂げる・・というのが通説になっています。

今回、立本寺の島左近の墓を確認してみました。立本寺には皇室関係他多くの墓があるようですが、墓地の入り口には、「関ヶ原大軍師 島左近の墓」の石碑があり、島左近だけは特別扱いのような感じです。左近の墓は入り口から4〜5列程度西へ進み、そこから真っ直ぐ南へ歩いた地点に有ります。お墓の管理人も島左近の墓の位置だけはご存知でした(佐野家の墓はご存知無いようでした。)

墓碑には「妙法院島左近源友之大神儀」背面には「寛永九壬申年(1632)六月二十六没」とあります。(写真)墓から考えられることは、関が原で傷ついた左近は僧となって立本寺に見を隠して23年間密かに生き、推定93歳で死去したということになります。実際、立本寺の塔頭・教法院には位牌と過去帳も残されていて、今も子孫の方が供養されているということです。
つい最近、朝日新聞に掲載されていた記事ですが、司馬遼太郎「城塞」等にも登場し、大阪夏の陣で戦死したと考えられていた豊臣秀吉の黄母衣衆・伊木常紀が、大阪の陣の30年後まで生存していたことが、京都宮津の智源寺に位牌等が残されていることから判明したということです。歴史というのはそういう物かもしれません。

実際、島左近の生涯は不明な点が多く、後世の伝承によって様々に色付けされています。最後は、合戦中に消息不明となり、恐らく、戦死したと言われるのですが、死体は発見されていないようです。当時非常に多くの敗残兵が身を隠し、浪人となった点を考えると、僧に身を隠して生き延びたというのも有り得ることだとは思います。まあ、華々しく戦死しても、生き延びて人知れず影のように余生を送っても、戦国のヒーロー島左近らしい生き方ということになるのかもしれませんね。

「西陣・北野天満宮他」書庫の記事一覧

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私も今年の1月に行きました。島左近の墓も見ましたが、江戸時代の年号になっていたんで何故だろうと思ってました。立本寺は立派なお寺ですが、観光化されてないせいかちょっと荒れた感じになっていたのを残念に思いました。

2007/3/13(火) 午前 9:08 みのX

このお寺は、観光寺院ではないですが、JR東海の観光スポット情報では、以外にも観光名所扱いで採り上げられています。桜と蓮。それと秋の庭園の特別公開があったためでしょうが、お寺も頑張って整備して欲しいですね。お寺の中は近くの小学校の通り道になっているようで、すれ違うたびに、「こんにちは」と子供達が声をかけてくれるのが良い印象でした。

2007/3/13(火) 午後 6:28 [ hir**i1600 ]

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明日左近のお墓参りに行くので参考にさせてもらいました。写真だととても素敵な感じで行くのが今から楽しみになりました!桜の時期もとてもいいですねありがとうございます!

2010/2/10(水) 午後 11:22 [ 景時 ]

島左近は人気が有りますね。大徳寺内の三成の墓が非公開なのは残念ですが・・京都には数多い戦国武将の墓がありますが、非公開寺院内にある墓も多く、普通にお寺や墓地をを訪ねて見られるのは、信長等の本能寺の変関係者、豊臣秀吉、豊臣秀次、島左近、松永久秀、長宗我部盛親、田中吉政、鳥井元忠、山中鹿之助、大久保彦左衛門といった辺りでしょうか。田中吉政以外は、このブログ(ブログパート2にも)に写真を掲載しています。(かなり以前に掲載した斉藤利三は削除してしまいましたが)

2010/2/11(木) 午後 11:19 [ hir**i1600 ]


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