|
左京区北白川仕伏町にある北白川天神宮は、北白川地区の氏神として知られる神社です。
この神社も前に少し採り上げましたが、もう少しまとめてみます。
北白川の地は、平安京以前の古代から開墾され有力氏族が居住していたことが発掘調査により判明しています。北白川廃寺と呼ばれる大寺院の遺跡も発掘され、古代には愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷(あわたごう)と呼ばれた北白川から南禅寺辺りは、粟田氏の勢力範囲だったことから、北白川廃寺は粟田氏の氏寺・粟田寺とも考えられています。
さて、北白川天神宮の祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
社伝によると、奈良時代(8世紀前半)に白川村の「久保田の森(現・北白川久保田町=銀閣寺道交差点の西北)」に祠を建て、少彦名命名を「天使大明神(天使社)」と称して祀ったのが始まりで、以降、地域の鎮守神としての信仰を集めていたと伝わります。この発祥の地「久保田の森」は当時の豪族らの山荘地だったと考えられているようです。
その後、室町時代の文明十四年(1482)に、八代将軍足利義政が東山殿(現・銀閣寺)の造営に当たり、この久保田の森にさしかかった時、急に馬が進まなくなったので家臣に調べさせたところ、この森に祠があることが判り、その神威を感じて王城鎮護の神として東北の鬼門にあたる現在の千古山明神の森(現北白川仕伏町)に遷座し奉ったと伝わります。
話は飛びますが、桃山時代の文録年間(1592〜96)初め、豊臣秀吉の信任厚い道証という僧が開基した照高院という寺が東山妙法院にありましたが、方広寺鐘銘事件に関連して東福寺・天得院が廃されたのに連座してこちらも廃されてしまいました。その後、江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟輿意法親王が、この照高院を、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受けて、門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に再建します。寺紋として菊御紋章雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」「北白川御殿」と呼ばれていました。
さて、「天使大明神(天使社)」は、寛文十三年(1673)に、この照高院宮第五代の道晃法親王の崇敬を受け、寛文年間(1666〜73)に「天使大明神」を「天神宮」と改号して、宮家の御祈願所となります。合わせて同十三年(1673)に石製の大鳥居、「天神宮」の御染筆による神号額を寄進されました。これが現在の額ということで、以後「北白川天神宮」と呼ばれるようになりました。
尚、照高院は、第六代忠譽法親王の時代に聖護院に属し、明治三年(1870)、門主の智成法親王は還俗して北白川宮と称します。そして、明治八年(1875)宮家の東京移転に伴い照高院は取り壊され廃寺となりました。今も付近の北白川地蔵谷には聖護院宮墓地があり、御殿橋と名づけられた橋が残ります。これらの関係で、北白川天神宮の「神輿」[御旅所」には「菊の御紋」が使われています。
かって、歴代法親王の祈願所だった天神宮ですが、今は地元の氏神として付近の方に親しまれています。神社の前を流れる白川に架かる萬世橋の左右には枝垂れ桜が植えられ、これからの季節が楽しみです。
橋を渡って神域に入ると、長い石段があります。この135段の石段を登ると、深い森に囲まれて拝殿・本殿・末社春日社、その他八幡社、日吉社、加茂社、稲荷社ら末社が立ち並んでいます。
また、神事として古式御弓神事(成人の日の前日)、高盛の神事(体育の日の8日前、大根なます・小芋・削りするめ等を円錐形に盛り伝統の献饌列にて供えます。京都市無形文化財に指定)が知られます。
|