京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区の千本通鞍馬口下ル閻魔前町にある引接寺(いんじょうじ)は、正式には、光明山歓喜院引接寺と言い、高野山真言宗に属しているお寺です。本尊に閻魔法王を祀ることから一般に「千本ゑんま堂」と呼ばれ親しまれています。(昨年お盆の頃にも少し採り上げましたが、もう少しまとめてみます。)




引接寺の開基は、平安時代の歌人として知られる小野篁で、あの世とこの世を往来する神通力を持ち、昼は宮中、夜は地獄の閻魔庁に仕えたという伝説がある人物です。そして、「化野」「鳥辺野」と並ぶ平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたる、平安京の大通りの朱雀大路頭(現・千本通り北側)に篁自ら閻魔法王の姿を刻み建立したのが引接寺の始まりと伝わります。

小野篁は、閻魔法王から、亡き先祖の霊を再びこの世に迎えて供養する「お精霊(しょらい)迎え」の法儀を授かり、それを諸人に伝える現世浄化の道場として一堂を開きました。この法儀とは、卒塔婆供養と迎え鐘を用いるもので、以降、宗旨や宗派を問わない民間信仰として発展し、現在も「盂蘭盆会(お盆)」の行事として多くの人が参拝しています。
この「お精霊迎え」ですが、旧盆の8月7〜15日、先祖の精霊が、ゑんま法王の許しを得て各家庭に戻られるのをお迎えする行事です。参拝者は水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音に乗ってこの世に帰られた「おしょらいさん」を仏壇の扉を開いてお迎えします。そして再び15〜16日には「お精霊送り」でお送りすることになります。前にお盆の風景としてブログで採り上げましたが、地元の方を中心に多数お参りされています。

さて、小野篁以後、寛仁元年(1017)、比叡山恵心僧都源信の法弟・定覚上人が、「諸人化導引接仏道」の意から「光明山歓喜院引接寺」と命名し寺院として開山しました。
本堂に祀られる本尊の閻魔法王は、創建時の像が応仁の乱で焼失した後、長享二年(1488)の定勢作と伝えられ高さ2.4mあり、左右に司命、司録を従えた姿で安置され、また堂内の壁には桃山時代の狩野元信筆閻魔王庁の図が飾って地獄の裁判庁舎を象っています。

また、境内の北側には、八月の「お精霊迎え」の「迎え鐘」「送り鐘」、大晦日の「除夜の鐘」で知られる鐘楼があります。この鐘は、南北朝時代の康歴元年(1379)の作で、京都市指定文化財に指定されています。(高さ148cm・口径82cm)






さて、境内の西北には、紫式部供養塔(高さ6m、幅・奥行き185cm、花崗岩製)があります。
この塔は、かって紫野にあった白毫院(びゃくごういん)という寺院にあり、白豪院が衰退したことにより天正年間(1573〜92)にこの地に移設されたものと伝わります。南北朝時代の至徳三年(1386)圓阿上人の勧進により建立したという銘があり、貴重な十層の石塔で国の重要文化財に指定されています。

この塔は、二重の宝塔と十三重塔の残欠を組み合わせた珍しい偶数の塔です。
一重目の円形の基礎石に十四体の地蔵小像が刻まれ、その上の軸部に薬師如来、弥勒菩薩、定印阿弥陀如来、釈迦如来の4仏坐像を刻んでいます。(像の横に至徳三年(1386)圓阿上人の勧進によって建立したとの銘があります)二重目は4隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部を置いています。その上に9個の笠石を置いて十重塔にしています。

紫式部のあの世での不遇な姿を見て成仏させようと建立した供養塔と伝えられますが、紫式部は源氏物語を書いたため虚言で人を惑わした罪で地獄で苦しんだという伝承があり、これが冥府の役人小野篁と結びついたのかもしれません(前に採り上げましたが、堀川北大路下る西側には、二人の墓があります。(江戸時代以降に並んだ形になったようです)





また、境内の桜は、「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」、別名「えんまどうふげん」と言われる名桜です。花冠のまま落ちる珍しい桜で、白い花が咲き、花弁の中から双葉が出て茎が長く垂れ下がる様子が、普賢菩薩の乗った白象の鼻に似ていることからこのように呼ばれています。古くから銘木として知られ、これまでに何度か植え継がれて植え替えられてきました。

この「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」は、古来2種あって嵯峨小倉山の山桜系の「二尊院普賢」、もうひとつが里桜系の「ゑんま堂普賢」ということで、この地は普賢桜の発祥の地ということになります。元々、平安京の朱雀大路頭になる船岡山麓に広く植えられ、この地に桜が千本あったことから、精霊供養の「千本卒塔婆」に因んで「千本」という地名が生まれたとも言われています。(房ごとに落花するため種も実もとれず、突然変異で生まれて来るのを待たなければならなかったため、出来るだけ多くの桜を植えるようになったという説もあるようです。)

当時は、桜と言えば、一重の桜しかなかったため、この豪華な花は人気を集めたようで、室町時代には多くの貴族がこの桜を見ようと訪れました。応永十五年(1408)、足利義満も後小松天皇に勧められて訪れ、感激して桜の頃に狂言を執り行うようにと、費用に米五十石を与えたと言うことです。また、船岡山は江戸時代には処刑場でもあったため、この桜の花の散る様子が、一ひらずつではなく花冠のまま落ちるという姿が、斬首される囚人の姿に似ているとして、京都所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたとも伝わります。

最後に、このお寺で5月に行われる「ゑんま堂大念仏狂言」は、京都三大念仏狂言(他は清涼寺、壬生寺)のうち、唯一の有声狂言で京都市の無形民族文化財に指定されています。
庶民的な雰囲気がいっぱいの千本ゑんま堂ですが、貴族や武家の信仰を集めてきた現在の一流の観光大寺院とは違った、京都の庶民信仰の歴史を感じさせてくれるお寺です。

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