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まだ寒い右京区嵐山からです。
嵐山を流れる桂川流域は、京都府の都市公園として整備され、上流左岸の亀山地区と、川の中州にある中ノ島地区、下流左岸の臨川寺地区の三地区に分かれます。
今回は、この内の亀山地区を採り上げました。この公園は亀山公園と呼ばれ、渡月橋から大堰川(桂川の嵐山付近の名称です。上流は保津川と呼ばれます)を少し溯った場所にあります。
亀山公園は、明治四十三年(1910)に開かれた嵐山公園の中でも最も古い公園地域で、小倉山の南東部を占める丘陵地になります。
亀山公園の名は、この丘が古来「亀山」と呼ばれてきたことに由来します。亀山の名は、丘の姿が亀に似ている所から呼ばれたようですが、平安時代以来、歌にも詠まれた景勝地として知られ、鎌倉時代には後嵯峨天皇が亀山殿を造営し、子の亀山天皇がこの地で崩御しました。また天龍寺の山号が「霊亀山(れいきざん)」であるのもこの山に由来しています。
さて、公園内には、幾つかの広場や展望台、児童広場が設けられていて、梅、桜、ツツジ、等が花を咲かせ、紅葉も美しいため四季を通じて散策が楽しめる場所になっています。また、公園内には、幾つかの銅像や碑が点在しています。
公園南の入口付近には、日中平和友好条約を締結した際に、周恩来首相が来日したことを記念昭和五十三年(1978)に建立された「雨中嵐山詩碑」が立っています。
雨の中で嵐山を再訪し、美しい山や流れ出る水を眺めていると、霧が立ち込める中、一筋の日の光が雲間から差し込んで、益々美しい眺めになった。人間の世界では、様々な真理があり追求すればするほど曖昧模糊となってしまう。しかし、その中で偶然一点の光を見つけて、真の美しさを見た思いがする・・故周恩来首相の漢詩が刻まれています。
そこから少し登ると、大堰川の開削工事を行った角倉了以の銅像があります。(写真)
桃山時代から江戸初期の豪商・角倉了以については前に「高瀬川一之船入」の時に書きましたが、江戸以降の京都経済の発展に大きな影響を与えた「高瀬川」を開いたことは有名です。了以は慶長十一年(1606)に大堰川(保津川)の開削を行い、保津川上流の丹波地方からの物資運搬ルートを確立しました。また、この工事で亡くなった人々を弔うために、嵐山に「大悲閣千光寺」を建立しました。亀山公園の展望台からは、対岸の山の中腹にこの千光寺が見えます。(写真)
(このブログでも、一部(天龍寺・大河内山荘・愛宕念仏寺等)を除いて嵐山嵯峨野の主なお寺は登場していると思いますが、千光寺もまだ採り上げていないお寺です、いずれ登場させたいと思います。)
この亀山公園の角倉了以像は、手に鍬を持った力強い姿です。
元々大正時代に建立されたものが、第二次大戦中に武器等の材料として供出されてしまったのを、昭和六十三年(1988)に、有志が新たに建立したもので、銅像の横には「大堰川高瀬川開削王角倉了以翁銅像再建」と刻まれています。この「角倉了以像」は円山公園の「坂本龍馬像」、三条京阪の「高山彦九郎像」と共に、「京都三大銅像」の一つとも言われるそうです。
また、角倉了以像のすぐ近くには、昭和三年(1928)に建立された「津崎村岡局(つざき むらおかのつぼね)の銅像」があります。(写真)
この像は少し木の陰になっているために気が付かない人も多いようです。津崎村岡局は、前に直指庵の時に少し書きましたが、幕末の女性勤王家で、幕末に活躍した女性達の中でも最も優れた人物の一人と言われています。
津崎村岡局は、名は矩子といって、大覚寺宮の家臣津崎左京の娘として生まれ、尊王攘夷派の公卿近衛忠ひろ(ただひろ)に仕え、村岡局と名のります。局は、尊皇攘夷の志士と公家との連絡役として活躍し、特に西郷隆盛を助けたことで知られます。安政の大獄で捕らえられて江戸に送られた後、京都の嵯峨直指庵で近所の子女の教育に尽くし、明治六年(1873に)88歳で死去しました。(嵯峨の住民にとって慈母のような存在だったとして、大沢の池畔にも村岡局の功績を讃える石碑があります)
坂道をさらに登ると、後伏見天皇・後嵯峨天皇・亀山天皇火葬塚があり、さらに奥には展望台があります。特に、大堰川を挟んで嵐山を見渡せる展望台からは、保津峡一帯を見渡すことが出来るのでお勧めです。眼下にトロッコ列車や保津川下りを眺め、渡月橋付近から見る嵐山とは違う壮大な山並を楽しむことが出来ます。(写真)
亀山公園は、天龍寺の裏側にあたり、大河内山荘に抜ける静かな「竹の道」の背後にもなるため、一年を通して観光客の多い嵐山でも割と静かな地域と言えるかもしれません。観光地めぐりに疲れた時には、この公園でゆっくり寛いでも良いかもしれませんね。
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