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上京区寺町通今出川上る鶴山町に並ぶお寺の中で、まず目を引くのが十念寺の本堂です。
コンクリートの教会のような造りで、お堂の中を少しガラス越しに見ると仏様が聖母子像のように見えるから不思議です。織田信長時代の南蛮寺のイメージを思わせるこの斬新な建物は、建築家でもある大阪市天王寺の一心寺の高口恭行住職の設計により,平成5年(1993)に完成した近代的な寺院建築です。一心寺は劇場のあるユニークな寺院ということで、十念寺も不思議な感じがするお寺です。
さて、十念寺は、華宮山宝樹院と号し、浄土宗西山光明寺派に属しているお寺です。
室町時代の永享三年(1431)に、後亀山天皇の皇子・真阿(しんな)上人が、足利六代将軍義教の帰依を受け、当時元誓願寺小川にあった誓願寺の山内に住房宝樹院を建てたのが始まりということです。その後、宝樹院が十念寺に改まった経緯は不明ですが、天正十九年(1591)秀吉の命により現在の地に移転しました。
本堂の本尊・阿弥陀如来座像は、弘法大師空海作とも恵心僧都源信作とも言われる平安時代の作で、東山にあった雲居寺(うんごじ)から移したと伝わります。その他本堂には開基真阿像を安置し、寺宝として室町時代の説話絵の仏鬼軍絵巻一巻が重要文化財に指定されています。(京都国立博物館寄託)、また境内には豊臣秀吉に仕えた医師施薬院全宗、儒医曲直瀬道三、足利六代将軍義教の墓等があります。
このお寺に観光で来られる方は、足利義教か、医学関係で曲直瀬道三&施薬院全宗に興味のある方がほとんどと思いますので、少しだけ足利義教から・・。
室町幕府の六代将軍足利義教は、はじめ僧籍にあり青蓮院門跡として義円と称しましたが、兄の四代将軍義持が子の五代義量が早世した後、後継者を定めずに死去したことから、僧籍にあった弟3人を含む後継者候補の中からくじ引きによって次期将軍と決まり還俗しました。
義教の治世は専制的な政治で知られます。くじで将軍になれなかった弟の義昭(大覚寺義昭)が南朝と結んだ反乱を鎮圧し、大内氏に命じ九州の大友、少弐氏を平定。また比叡山延暦寺を攻撃し僧を惨殺。永享の乱で宿敵・関東公方足利持氏を倒し、結城合戦で持氏の残党と結城氏朝らを鎮圧。また南朝勢力の中心北畠満雅の反乱を平定し、土岐持頼、一色義貫等を謀反の罪で討伐殺害しました。また側近も伊勢貞経が失脚自殺、相続争いに乗じられ重臣畠山持国も隠居に追い込まれたように「万人恐怖の世」と恐れられる独裁ぶりでしたが、ついに、将軍にやられる前に・・と恐れた播磨守護・赤松満祐によって暗殺されてしまいました(嘉吉の乱)
結局、信長を連想させる強権政治で将軍の権威を回復したにもかかわらず、信長の死後には秩序ある近世が生まれたのに、義教の死は長い分裂と騒乱の始まりでしか無かったことから、義教の評価は低いのでしょう。
さて、義教の首は赤松氏により播磨へ持ち去られ、遺体は等持院へ運ばれ葬儀が行われました。突然の将軍暗殺のショックから幕府の重鎮らも情勢を窺い、葬儀には主だった守護大名の参列は無かったということです。その後、首は相国寺の季瓊真蘂(きけいしんずい)上人により京都へ戻されたと伝わります。尚、足利義教の菩提のために、嘉吉二年(1442)に室町幕府の重鎮のひとり細川持賢が建立した大阪の崇禅寺と、将軍を殺害後、赤松満祐が本国播磨へ首を持ち帰り盛大な葬儀を行い葬ったという安国寺(兵庫県加東郡東条町)の2ケ所に義教の首塚が伝わります。
十念寺の足利義教の墓は、付近の墓に比べても小さい五輪塔で、将軍の墓とは思えないものです・・ただ花が添えられていたのが救いでしょうか。
一方、十念寺には安土桃山時代の医師・曲直瀬道三(まなせどうさん)の墓があり、顕彰碑も建立されていて、こちらの方は日本の医学中興の祖として忘れられていない存在です。
曲直瀬道三は、永正四年(1507)京都に生まれ、幼少時代に父母を失うなど苦労を重ねながら、医学に目覚め、ついに天下の名医として名を成しました。足利13代将軍義輝、正親町・後陽成両天皇、織田信長、その他戦国大名の診療を行い「医聖」と称された程の人物です。また数百人の弟子達と共にキリシタンの洗礼を受けて、都でも大きな話題となったそうです。
とにかく、十念寺のお墓はわかり難いです。
以前に来た時は、京都一お墓探しが難しいという印象で、まったく見つかりませんでした。
もちろん標示は無く、広い墓地なので案内が無ければ1時間探しても見つからないと自信を持って言えます。今回、足利義教の墓はHPで義教について書かれている方の写真を参考に、なんとか自力で見つけることが出来ました。
しかし、曲直瀬道三の墓はお寺の方に案内を請いました・・以前に訪れた時は、留守番のお婆さんしかいなくて、入り口付近と聞いていますという返事・・・結局それは道三の顕彰碑(写真 これはすぐわかります。)だったということがあったので、今回は無駄な事をしないで案内を頼みました。それでもお寺の方も確かこの辺り?・・状態でやっと判明。秀吉に仕えたもう一人の名医・施薬院全宗の墓はもう案内してもらうのも遠慮で諦めました・・。
今回、足利義教と曲直瀬道三の墓の写真を掲載します。背景の建物やブロック塀、椿の木等参考に自力で発見できるように撮りましたので、ご興味のある方は参考にしてください。場所は共に墓地の東北方向、壁に近いラインで見つかります。道三の墓には細い石標も立っていますので確認ください。
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