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上京区寺町通今出川上る鶴山町に並ぶお寺が続いています。
前回の少し寂しげな足利義教の墓のある十念寺の北隣にあるのが阿弥陀寺です。
こちらは足利義教と違って人気の織田信長の墓があるので、休日、平日に関係なく信長ファンがチラホラ訪れています。有名な本能寺よりははるかに少ない人数ですが、ベストセラーになった「信長の棺」の効果もあって以前より脚光を浴びているようです。
前にも阿弥陀寺の信長の墓を採り上げていますが、この阿弥陀寺の墓は、全国に20ヶ所以上有る信長の墓・供養塔の中で、唯一本物の信長の遺骨が納められた可能性のある墓としても知られているので、再度書いてみます。
京都市の掲示板によれば、阿弥陀寺は、蓮台山と号する浄土宗寺院で、本尊は丈六の大きな阿弥陀如来を祀っています。創建は、天文年間(1532〜54)、清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県)の坂本に開創しました。その後、永禄年間(1558〜70)織田信長の帰依を得て京の地に移し、当初、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に大きな境内(八町四方)と塔頭十一ケ寺を構えていたということです。また正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所としていました。
さて、清玉上人は織田家と深い親交があったため、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の際、本能寺等に駆けつけて、信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を阿弥陀寺に埋葬したと伝わり、本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置されています。その後、天正十五年(1587)に、秀吉の命で、蓮台野から現在の地に移り、また京都四十八願寺巡拝の十六番札所になっています。
寺伝によれば、明智光秀が謀反を起し本能寺に攻め寄せているという報せを聞いた清玉上人は、塔頭の僧徒20人余りを引き連れて本能寺に駆けつけました。
既に本能寺は明智軍により四方を囲まれていて表門からは境内に入る事は出来なかったので、裏道よりなんとか境内に入りますが、既に堂宇に火が放たれ、信長は切腹した後ということでした。
見ると近くの竹林に10人ほどの武士が集まって火を焚いています。彼らは信長の家臣達のようだったので、上人が彼らに顛末を聞くと、信長は切腹する時に、必ず死骸を敵に渡すなと遺言されたのですが、四方を敵に囲まれ死骸を抱いて逃れる事が出来ないので、やむなく火葬にして隠し我々は各自自殺しようとしているというだということでした。
上人は、私は信長公とは格別の由縁ある者なので、火葬はもちろん、将来の御追悼をしましょうといって武士達に乞い、各々自殺するよりも、むしろ信長公の為に敵と戦って戦死する方が公も望まれるでしょうと語ると、(信長の供養を頼んだ安心もあったのでしょう。)武士らも大いに喜んで、門前の敵と戦っている隙に、上人は火葬した白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らが逃げるのに紛れてうまく帰寺する事が出来たのでした。そして白骨を深く土中に隠し置いたということです。また二条城で戦死した長男信忠の遺骨や本能寺の戦死者の遺骨も同様に持ち帰り葬りました。
その後、秀吉が信長の遺骨の行方を聞き、信長の一周忌を行おうと清玉上人に法事を頼んだ所、上人は信長亡き後の秀吉の振舞いは織田家の乗っ取りを狙うもので、信長の一周忌を自分のために利用しようとしていると嫌い、秀吉の申し出を断ったということです。
怒った秀吉は、結局、紫野大徳寺境内に一寺(信長公の法名を採って総見院)を建立し、遺骸が無いので信長の木像を二体作りそのうち一体を火葬にし一体を寺に祀ることにしました。阿弥陀寺は、天正十五年(1587)に、秀吉の命令で、蓮台野から現在の地に移されますが、秀吉の恨みを買っていたので広大な寺域を削られたとも伝えられます。
これらのエピソードからは真実に近い部分も感じられます。
信長の死体が本能寺の焼け跡から発見されなかったということは事実と考えられているので、何らかの形で(遺骸はともかく)火葬された遺骨という形であれば持ち出すことも可能だったでしょう。
秀吉が阿弥陀寺に法事を頼んでいることからも、阿弥陀寺にはこの件に関して何らかの関わりがあったのかもしれません。ただ信憑性に疑問を感じさせるのは、信長以外の信忠や森蘭丸以下の家臣の遺骨までくまなく回収するという点でしょう・・ただ彼らのお墓が阿弥陀寺にあるのも事実ですが・・・。
真偽はともかく、信長の骨を埋葬したという記録のあるお寺は他に無いだけ注目したいお寺です。
さて、阿弥陀寺の墓地には、信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討ち死にした家臣・森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟の墓(写真)、その他猪子兵助ら12名の家臣の墓があると言うことですが各々の確認は難しいです。一応、奥に本能寺の変の討死衆の合葬墓や織田一族の墓(江戸期の一族の名があります)があります。(写真)
その他墓地には、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等があります。
また、信長・信忠の木像を祀る本堂は普段は公開されていませんが、6月1〜2日に信長忌が行われ、その際に一般公開されているようです。本能寺のような大きな墓では無いですが、信長ファンであればこちらの方にこそお参りするべきでしょうか。
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信長の墓については天正10年の7月の山科家(公家)の日記に阿弥陀寺の墓前に詣でたことが記録されています。本能寺の変より1ヶ月後の記録ですので、相当に信憑性があるように思います。また墓前の灯篭は天正13年のもので 青木加賀という方の寄進です。青き加賀は信長の家臣の一人です。これも信長の墓を裏付けるひとつとなるようです
2008/5/14(水) 午後 10:27 [ りょうさん ]
りょうさん、貴重な情報をありがとうございます。
阿弥陀寺は、昨今の信長人気で、訪問者も増えてきたようです。地味なお寺ですが、静かにお墓に詣でるのにはふさわしい感じですね。
2008/5/17(土) 午後 4:35 [ hir**i1600 ]
貴重な情報をありがとうございます。
この連休に、京都に行く用が出来ました。
時間が取れたら訪ねてみたいと思います。
時間が取れなかったら・・・それはそれで6月2日に行く口実が出来たと思うことに。
2010/5/2(日) 午前 1:42
見習いぽっぽさん、阿弥陀寺の信長忌の写真も掲載していますので、ご参照ください。
2010/5/2(日) 午前 8:43 [ hir**i1600 ]