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これまで寺町通りに並ぶお寺を連続で採り上げました。多くお寺は境内が整った印象でしたが、今回の天寧寺(てんねいじ)も綺麗な境内です。
そして山門から覗くと、比叡山が正面に見えます・・・この山門を額縁に見立てての眺望の素晴らしさから、この山門は「額縁門」と呼ばれ親しまれています。
一般的な京都ガイドには出て来ませんが、「額縁門」は観光の穴場といった感じでしょうか。また、天寧寺は、この前の阿弥陀寺と同様に、以前「京都の冬の旅」で観光客向けに特別拝観を行ったことのあるお寺ということです。
さて、北区鞍馬口通寺町下る天寧寺門前町にある天寧寺は前回の西園寺の隣ですが、ここから北区になります。(西園寺は上京区)このお寺はHPがあるので少し引用させていただきます。
天寧寺は、山号を萬松山と号し、曹洞宗に属するお寺です。
京都の寺院には珍しく、元々は南北朝時代に創建された福島県会津若松市東山町にあったお寺で、開山の傑堂能勝(けつどうのうしょう)和尚は楠正成の八男とも言われます。しかし、戦国時代の天正十四年(1586)米沢から伊達政宗が会津へ侵入し、葦名氏や二本松、白河、二階堂、石川諸氏と戦闘を繰り返し、兵火に遭った天寧寺は全焼してしまいます。
当時の十世住職・祥山曇吉和尚は、戦乱の続く会津での再建を諦め焼け残った本尊や寺宝等を収拾し、京都の寺町頭にあった天台宗松蔭坊の遺跡と言われるこの地に移転したと伝えられます。祥山和尚及び弟子の光吉和尚の努力により文録年間以降(1592〜96)に会津の上杉家家老・直江兼続や京都所司代・板倉勝重らの援助を得て堂宇を整えることに成功し、後陽成天皇や後水尾天皇の帰依を受けたと伝わります。
現在の本堂は天明八年(1788)年の天明の大火で全焼した後の再建で、六間取りの大きな本堂は文化九年(1812)、書院は天保十四年(1843)、山門は嘉永二年(1849)の再建です。これら本堂、書院、表門は江戸時代の伽藍の様子を良く伝え、京都市内には数少ない貴重な曹洞宗の近世寺院建築として京都市指定有形文化財になっています。
本堂には、仏師春日作と伝えられる本尊釈迦如来像を、また観音堂には後水尾天皇の念持仏の十一面聖観音菩薩像、東福門院の念持仏の薬師如来像を安置しています。他に寺宝として「馬祖寵居士問答図(重文指定)」をはじめ金森宗和像、野々村仁清作の「銹絵水仙図茶碗」等があるようです。
また境内墓地には、江戸時代前期の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流開祖と言われる善吉(ぜんきつ)和尚の墓があります。
せっかくなので金森宗和の墓を見ることにしました。
宗和流茶道の祖・金森重近(宗和)(1584〜1656)は、飛騨高山城主金森可重の長男で、祖父も信長・秀吉に仕えた武将として知られる長近です。祖父も父も千利休門下の茶人という環境に育った宗和は、秀吉や家康に仕えた後、慶長十九年(1614)30歳の時に父から勘当を申し渡され、家督は弟重頼が嗣ぐことになります。勘当の理由は不明ですが、大阪の陣に豊臣方に加担しようとしたとか、何らかの政治的配慮があったとも考えられているようです。
こうして相続権を失った宗和は、母親の室町殿(京都の室町に住んだため呼ばれます。美濃の武将・遠藤慶隆の娘。ちなみに遠藤慶隆は、山内一豊の妻・千代(見性院)の兄とも言われます。母親もこの時離縁されたため、宗和が面倒を見ていくことになります。)と共に京都に移り住み、大徳寺で禅を学び、剃髪して宗和と号しました。その後公家との交友を介して禁中にも出入りし、茶人としての名声を高めます。
宗和の茶道は「姫宗和」と呼ばれるように優雅で上品な茶風で特に公家中心に大きな影響を与えました。手掛けた茶室・庭園には、前に出てきました大徳寺真珠庵の庭玉軒、麗苑寺の夕佳亭、興福寺慈眼院の六窓庵(東京国立博物館に移築)などがあり、大原三千院の客殿前の庭・聚碧園も宗和の作として知られます。こうして京都文化に大きな影響与えた金森宗和は、明暦二年(1656)、73歳で没しました。天寧寺には宗和の5年前に亡くなった母室町殿と寄り添うように墓があります。(左が母、右が宗和の墓)
また本堂の前の栢(カヤ)の大木は、樹高16.2m、最大周囲4.78mあり、頂には落雷の跡があり、幹には天明の大火の際に受けたと思われる傷跡があります。この「天寧寺のカヤ」は京都市内有数のカヤの大木として京都市登録の天然記念物」に指定されています。
天寧寺と言えば、やはり寺町通から比叡山が額の中に納まったかのように見られる「額縁門」が一番有名かと思います。四季で色々な表情が楽しめるかもしれませんので、機会があれば覗いてみてください。
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