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中京区千本丸太町上る聚楽廻東町、上京区と中京区の境界に跨って内野児童公園という小さな公園があり、「大極殿遺址」という石碑が建っています。
この辺りは、かって平安京の中心部、大内裏(だいだいり)の最も重要な建物「大極殿(だいごくでん)」があった場所でした。
桓武天皇が開いた平安京は南北約5.3km、東西約4.6kmの長方形の都で、中央北端には、大内裏(平安宮)がありました。東西南北に碁盤の目状の通りが走り、中心を道幅約84mのメインストリートの朱雀大路が南北に通っていました。(現在の堀川通や紫明通の両車線最大道幅より1.5倍程広いという感じでしょうか)
前に、この朱雀大路の最南にあった羅生門をブログで採り上げましたが、この羅生門跡から北へ真っ直ぐに延びているのが千本通で、朱雀大路の名残になります。(今は一部JR京都駅で跡絶えながら細々と北上し、千本三条から道幅を広げます)千本通は、上京区に入るとかっての平安京の心臓部「大内裏(平安宮)」に到達します。
大内裏は、北端を現在の一条通、南を現在の二条城の南端から少し北上した辺り(千本押小路上がるに朱雀門跡があります)、東を大宮通、西を御前通付近とした長方形の形をしていました。大内裏には、天皇の生活の場であった「内裏」、儀式を行う「朝堂院」、饗宴場の「豊楽院」その他様々な役所が建ち並んでいました。
さて、大極殿は、朝廷の儀式を行う最も重要な宮殿、朝堂院(ちょうどういん)の正殿でした。
朝堂院は、周囲を廻廊で囲まれ、南は朱雀大路に向かって応天門、北に昭慶門(しょうけいもん)が開き、中に12の建物が東西対象に配され、北中央に南面して大極殿があり、宮中の儀式が行われていました。最も重要な建物になる大極殿では、天皇の即位式をはじめ、毎年の朝賀、斎会(さいえ)など国家の最も大切な儀式が行われたようです。
大極殿は記録によると3度建造されています。
最初の建物は延暦十四年(795)頃に完成しますが、貞観十八年(876)に火災で焼失。すぐに再建されましたが、再び天喜六年(1058)に焼失して、延久四年(1072)に再建されました。そして安元三年(1177)の火災で焼失してからは再建されず、この付近一帯は荒野となっていきます。
再建されなかった理由は、既に必要性が失われていたためでした。平安時代中期以降、律令体制は徐々に弛みはじめ、内裏、朝堂院、饗宴場といった建物が本来の役割を果たさなくなりました。使用されない建物もあり、これまで大内裏で行われていた官庁業務の執務も役人の自邸で行われるようになり、饗宴も貴族の邸で行われるようになって、大内裏自体の存在価値が無くなってきたようです。こうし大内裏周辺はやがて荒廃して内野と呼ばれ、中世に入ると宅地化して、寺院が移転して現在の町並みへと変わっていきます。
さて、内野児童公園にある「大極殿遺址」の石碑は、明治二十八年(1895)の「平安遷都千百年紀念祭」の時に建てられたものです。
この祭事計画は、前に少し書きましたが、明治時代に首都の東京奠都によって沈滞化をしていた京都市の活性化策でもありました。この時に、平安京の建物を3分の2のスケールで再現した(拝殿は大極殿をモデル)平安神宮が建設され、京都市内各地の桓武天皇ゆかりの寺社や史跡の修繕・保存が行われました。また、紀念祭委員の歴史学者・湯本文彦(1843〜1921)は、初めて平安京の実測調査を行い、この調査結果に基づいて、羅生門跡や大極殿跡に石碑が建てられました。
尚、現在は近年の発掘調査により、石碑の位置は大極殿の北側の回廊のあった場所で、大極殿の中心部は約100m南東の千本丸太町交差点付近と判明しています。
南北朝以降、御所が現在の位置に移転し、かっての平安京のメインストリート朱雀大路は衰退しました。しかし今でも京都でも最も親しみやすい雰囲気のする通りの一つ千本通として賑わいを見せています。平安京の中心地だった千本丸太町付近は歩けば平安京時代の史跡に出会う場所ですね。
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「京の歴史ウォーキング」に参加して此処を訪れた事があります。その時の先生の説明では大極殿は千本丸太町交差点の北西角辺りにあったとおっしゃってました。当時の朱雀大路は今の千本通りより道幅がずっと広く28丈(約84m)もあったそうですね。
2007/4/1(日) 午前 7:01
京都の中心部のこの辺りには、室町幕府跡とか色々な石碑がありますが、写真を撮るというとあまり面白いものはありません。その中でこの大極殿跡は記念行事で建てただけに大きくて目立ちますね。
2007/4/1(日) 午後 1:09 [ hir**i1600 ]
おはよう御座います。
関連記事から来ました。
平安京の大極殿ですね。ポチ
2013/10/20(日) 午前 8:05