京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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妙蓮寺

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前に芙蓉の花を採り上げました妙蓮寺です。見所の多いお寺なので今回は沿革その他書いてみます。

妙蓮寺は、これまでも境内自由でしたが、庭園や襖絵の拝観を始めたのは近年の事だと思います。
最近はこれまで寺宝や庭園を公開して来なかった寺院が、経済的な理由や公開を求める声等により、通年公開や期間限定の特別公開を始めています。観光名所が増えるのはありがたいですね。
妙蓮寺内でも観光寺院化の是非については色々議論があったようですが、庭園が復元されたことをきっかけに庭園と襖絵を広く一般に公開しています。(また事前予約で、重文指定の長谷川等伯の襖絵等も特別拝観可能です。)


さて、上京区寺之内通大宮東入る妙蓮寺前町にある妙蓮寺は、山号を卯木山という本門法華宗の大本山で、本尊は日蓮自筆と伝える十界曼荼羅です。
妙蓮寺の創建は、宗祖日蓮上人より「帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)」という遺命を受けた日像上人によって、永仁二年(1294)に創建されました。(京都の日蓮宗系の寺院の創建については同じような創建話を書くことになりますが、よろしくお願いします。)

日像上人は六老僧(日蓮聖人の六大弟子)の日朗上人の弟子でしたが、宗祖日蓮上人は、死の床で13歳の日像に京都での布教活動を託しました。その後、25歳になった時、日像上人は京都布教を決意し鎌倉から上洛します。
京都での日像上人の布教活動は、五条西洞院の大酒造りの柳酒屋の主人・仲興(なかおき)入道夫妻を帰依させました。そして主人死後、未亡人は邸内に一宇を建立して上人を請じ、(未亡人は自身、剃髪し妙連法尼と称します。)寺号を妙法蓮華寺(柳酒屋から柳寺とも言われます)と称したのが妙蓮寺の始まりと伝えられます。(柳の字を二つに分けて卯木山としたと伝えられます。)しかし、その後他宗派等の迫害により衰退し廃寺となりました。


ここで話が長くなりますが・・
日蓮宗は幾度か分派分裂の歴史を繰り返していますが、室町時代に幾つかの対立を生み出した原因の一つに法華経の内容に関する解釈論争がありました。
法華経の前半(第一から第十四の安楽行品まで)を「迹門」、後半(第十五の涌出品〜観発品第二十八まで)を「本門」と言いますが、この前半と後半の関係をどう見るかという、本迹一致か本迹勝劣かと言う「本迹一致・勝劣」論争という教義論争です。
日蓮宗はそもそも「本迹勝劣」の立場を基本としてきましたが、宗派内部で「本迹一致」を採る異論が起こったことから混乱を生み分派を生むことになります。(この問題は教義の内容を理解しないと書けない複雑な問題なので、知識も無く、またブログの趣旨とも違いますのでこれまでにします。)
以前に、妙顕寺の第五世・具覚月明上人の時代、比叡山衆徒の攻撃を受けて妙顕寺が破壊された時に、立本寺が分立したことを書きましたが、そもそも具覚月明が「本迹一致」を唱えた事が混乱を引き起こし、日隆、日慶、日存、日道らを妙顕寺から去らせたのでした。


さて、応永年間(1420頃)、この論争で妙顕寺を去った日慶上人は日隆、日存、日道らと妙蓮寺開祖・日像上人ゆかりの妙法蓮華寺(柳寺)を、大宮四条下るに本門八品門流の寺院として再興し卯木山妙蓮寺と号しました。その後、永享年間(1440頃)堀川四条に移り、宝徳元年(1449)皇室や伏見宮家と関係の深い日応僧正を別当職に迎えてから、皇族や足利将軍義尚等の参詣が増えました。
また公家の今出川家出身の日忠上人は、三井寺より改宗して妙蓮寺に投じ他人物で、学室道輪寺を創立し本化教学の道場を開き、こうして妙蓮寺は大いに栄え、京都の法華宗二十一本山のひとつとして発展したと言うことです。
しかし、天文五年(1536)の「天文法華の乱(天文法乱)」により、比叡山延暦寺をはじめとする諸宗の10万人によって襲撃され、他の本山と共に焼失しまし、堺に逃れます。

天文十一年(1542)に帰洛を許されて、大宮西北小路に復興し、その後、天正十五年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第造営のために現在地に移転しました。その当時は七堂伽藍が建ち並び塔頭27を有する大寺院でしたが、天明八年(1788)の天明の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなりました。翌寛政元年より復興を開始し諸堂を完成させ現在に至ります。(現在の塔頭は8院です。)


境内を見てみると、妙蓮寺の山門は文政元年(1818)に御所より拝領し建立したもので、両袖番所付という特徴があり風格を感じさせる門です。(写真)
また鐘楼は、天明の大火から逃れた江戸時代初期の貴重な鐘楼で、入母屋造本瓦葺の数少ない本格的な袴腰鐘楼です。(写真)
玄関・奥書院の襖絵は、長谷川等伯一派の作と言われる全42面の金碧画で、庭園の庭石と共に秀吉が寄進したものと伝えられます。奥書院の四間には、元々この重文の長谷川一派の襖絵がありましたが、保存のため昭和五十六年(1981)に完成した日本画家幸野楳渓筆の「四季の襖絵」に変えられています。こちらも親しみやすい四季の風景図です。
寺宝として本阿弥光悦の筆による「立正安国論」と後深草天皇御宸翰の「法華経」が重要文化財に指定され、他に松尾神社に伝わる「松尾社一切経」等があります。

枯山水庭園は江戸初期のもので、「十六羅漢の石庭」と呼ばれます。(写真)
白河砂に16の石を配置し、北山杉を植えた庭園です。桂離宮の造営を指図した妙蓮寺の僧玉淵坊日首の作庭と伝えられ、中央よりの大きな青石は、牛が伏せている姿に似ていることから臥牛石といい、豊臣秀吉によって伏見城から移された名石と言うことです。天明の大火等の火災により損傷が激しかっものを、近年に造園当時の姿に復元されたものです。

また境内の墓地には、赤穂義士四十六名の遺髪塔があります。(写真)
討ち入り後に切腹が決った際に、同志の寺坂吉右衛門が赤穂城下への帰路の途中に、京都伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立ち寄って、遺髪を託しました。赤穂義士の遺髪は、主君の三回忌にあたる元禄十七年(1704)二月、この姉が施主となり菩提寺である妙蓮寺に遺髪塔を建立しました。しかし、歳月により老朽化したため、平成十四年に再建されたものです。



他に境内には、前に採り上げた芙蓉や、有名な「妙蓮寺椿」や「御会式桜」があり四季の花でも楽しめるお寺です。「妙蓮寺椿」は、室町時代の連歌師として有名な宗祇の写生と賛がある掛け軸の写しが残っていて、五百年以上の歴史がある由緒ある椿です。40年程前に火災で一世が焼失したようですが、その後二世が昭和五十六年(1981)から育てられていると言うことです。この苗が販売されています(写真)(6000円です。昨年はお茶関係者にまとめて売れたようですが、今年は売れ行きが悪いそうです。送料が8000円かかるそうです。)
また「御会式桜(おえしきざくら)」は、10月13日の日蓮大聖人御入滅の日前後から咲き始め、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろ満開となる珍しい桜です。(写真)





妙蓮寺では拝観者にガイド説明していただけます。行かれた方はご存知かと思いますが、時間が経過するにつれ光の角度が変わって襖絵が変わって行くとか、京都の魅力と色々面白いお話を聞かせてもらって、ついつい話し込んで長居してしまいました。その他、宿坊・席貸も受け付けていて、毎月12日には境内でフリーマーケットが行われています。
京都の日蓮宗系の寺院の中では堅苦しさが無くて、またふらっと境内の花などを覗いてみたい親しみやすいお寺です。

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そうですね。親しみやすくってまたひょっこりと行きたくなるようなお寺ですね。

2007/4/3(火) 午後 10:04 ロビン

まだ観光客の方の認知度は低いと思うのですが、こういう穴場の方が寛げますね。このブログに超有名寺院が中々出てこないのは、そういう訳なのですが(^^)

2007/4/3(火) 午後 11:11 [ hir**i1600 ]


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