京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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妙覚寺

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上京区新町頭鞍馬口下る下清蔵口町にあるのが、日蓮宗の具足山・妙覚寺です。


妙覚寺も前回の妙蓮寺等と同様に、日蓮宗系京都十六本山の一つで、妙顕寺・立本寺とともに三具足山と言われ、北龍華とも呼ばれます。妙覚寺も以前は境内自由のみのお寺でしたが、現在は本堂・庭園・祖師堂内部が一般公開されています。(ただし撮影のみに関心がある方、予約の無い団体客はお断りしますと張り紙が掲示されていますので、観光化と言うのは違うかもしれません。)まだまだ観光客もチラホラ程度という感じですが、紅葉の穴場としては知られつつあるようです。


さて、妙覚寺の創建ですが、また、宗祖日蓮上人より「帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)」という遺命を受けた日像上人が登場します。これまでに出てきた立本寺も妙蓮寺も、この妙覚寺も、日像上人が創建した妙顕寺から分立したお寺なので仕方ありません・・・とにかく日像上人は3度追放されながらも、最後には布教を許されて妙顕寺を創建し、後醍醐天皇より、法華宗の宗号綸旨を与えられ勅願寺となる成功を収めます。

しかし、その後、前回にも書きました妙顕寺の宗論及び後継者騒動から妙顕寺を出た日実上人が、永和四年(1378)、豪商小野妙覚の寄進を受けて四条大宮に妙覚寺を創建することになります。
その後、文明十五年(1483)に十二世日寮上人の時代に、将軍足利義尚の命で室町西二条押小路衣棚に移りました。この時代妙覚寺は大いに栄え、山内の塔頭は百を超え、全国に末寺が千を数えたと言われます。
しかし、天文五年(1536)「天文法華の乱(天文法難)」が起こり、比叡山延暦寺、南都僧兵、近江衆等の大軍に、京都日蓮宗二十一本山は全て焼き払われます。この時に妙覚寺貫主十七世日兆上人は堺へ避難する途中の鳥羽街道で流れ矢によってて死去(遷化)しています。

天文十一年(1542)、帰洛が許され、妙覚寺は天文十七年(1548)、旧地に復興しました。第十九世日饒(にちじょう)上人は、美濃(岐阜)の戦国大名斎藤道三の子だったという縁もあって、妙覚寺は元亀・天正の頃には、本能寺と共に織田信長(斎藤道三の婿)の宿所になっています。


ここで話が飛びますが・・妙覚寺と言えば、斎藤道三ゆかりのお寺としても知られます。
斎藤道三は司馬遼太郎の「国盗り物語」等の歴史小説の影響から下克上の典型的な人物として知られ、徒手空拳から美濃一国の主になった人物として、北条早雲や松永久秀と共に「戦国三悪人」等と言われてきました。しかし道三の伝記は江戸時代以降に書かれた戦記物語によっていて、歴史的資料が乏しく不明な点が多いため正確なことはわかりません。また近年は、北条早雲もそうですが、小説家が面白く描いてきたような成り上がりの劇的な生涯というより、実際はある種のボックボーンがあったと考えられ、道三については父と2代での国盗りだったとも指摘されているようです。

それはともかく、妙覚寺に伝わる伝承では、道三は若い頃に妙覚寺で修行していましたが、父は長井豊後守利隆というれっきとした武士の出身で、道三は妙覚寺の日諦上人に帰依していたと伝わります。また道三の弟の隼人正は日重上人の知人だったと言うことです。そして第十九世日饒(にちじょう)上人が若くして妙覚寺の貫主になったのは父道三の力によると考えられるようです。

さて、道三は弘治二年(1556)四月十一年に日饒(にちじょう)上人に遺言状を記し、翌二十日に子の義龍と戦って長良川畔で敗れ戦死します。妙覚寺では、この道三の遺言状が展示されています。(写真)斎藤道三の家紋「二頭立波(二頭波)」紋の下に掲示されいる遺言状には、美濃を信長に譲った事、子(日饒上人)の妙覚寺入りを喜び、自身は明日の戦いで死ぬ覚悟だと記しています。

「わざわざ申し送りし候意趣は、美濃の国大桑において、ついには織田上総介の存分に任すべきの条、ゆずり状信長に対して渡しつかわす。その節たらば下口出勢眼前なり。
その方こと、堅約のごとく、京の妙覚寺へのぼられたるはもっともに候。一子出家するば九族天に生ずといえり。かくのごとくととのい候。一筆なみだばかりなり。
よしそれも夢、斎藤山城ここに至って、法華妙躰のうち、生老病死の苦をば、修羅場において仏果を得る。うれしいかな。
すでに明日の一戦におよび、五躰不具の成仏疑いあるべからず。げにや、捨ててだにこの世のほかはなきものを、いずくかついのすみかなりけん 弘治二年四月十一年 斎藤山城入 道三 児まいる」



道三の死後、遺言状により美濃を譲り受けた織田信長は、斉藤氏を滅ぼしました。そして美濃を拠点に上洛を果たします。妙覚寺は信長が2度目の上洛をした元亀三年(1572)以来は定宿となり、天正元年(1573)、三年(1575)には妙覚寺で千利休の茶頭で大茶会が行われているようです。

また天正十年(1582)六月一日には信長の嫡男・信忠が妙覚寺に宿泊し、本能寺の変を知って手勢を集めて二条御所に立て篭もり応戦しましたが衆寡敵せずに御所に火を放って自刃しました。妙覚寺もこの時焼失したようです・・・この点について、妙覚寺のパンフレットでは「幸いにも妙覚寺は兵火を免れたと伝えている。」と記されています。その後、天正十一年(1583)に豊臣秀吉の洛中整理により、現在地への移転を命じられ、翌天正12年(1584)に再建されました。

この頃、伊達政宗が妙覚寺を宿としています。
伊達政宗は天正十九年(1591)に秀吉の厳しい命令により上洛し、3ヶ月間妙覚寺に滞在しました。その間政宗は、訪問してくる諸侯たちに自身亭主となって茶を勧め、徳川家康や千利休(結局、切腹する直前になりました)とも対面しました。結局、伊達政宗は従四位に叙任され聚楽第の秀吉を訪ね信任を得る事に成功することになります。


妙覚寺と言えば二十一世日奥上人も有名な人物です。
日奥上人は、日蓮宗の伝統的な基本原則「不受不施(日蓮宗の僧は他宗の者から施しを受けず、また、日蓮宗の信徒は他宗の僧に施しをしない)」を強く主張し、豊臣秀吉や徳川家康の怒りを買うことになります。日奥上人は、秀吉が方広寺大仏殿で行った仏開眼千僧供養会への参加を各宗派の僧に命じた時も、秀吉が日蓮宗徒で無いことを理由に出仕を拒否しました。

しかし、既にこの時代には「不受不施」の伝統は失われつつあり、受不施を主張する僧も多かったため、権力に逆らう行為に対し宗派内部からも激しい批判が起こります。
こうして日奥は妙覚寺を去りますが、その後も徳川家康が継続した千僧供養会に対しても出仕を拒否して、ついに家康は日奥上人を対馬へ配流ました。その後赦免されますが、再び受不施・不受不施をめぐる宗派対立が起こり、結局、寛永八年(1631)、幕府は受不施派を認め、不受不施派を弾圧しました。
日奥上人はこの時既に死去していましたが、中心人物として墓を暴いて遺骸を再び対馬に流したほどでした。この不受不施派に禁止により新寺の建立も禁止され、妙覚寺は大きな打撃を受け勢力は衰えました。

しかし本阿弥光悦の猶子の二十四世日充上人、伏見宮邦房親王の子二十五世日廷上人が公家の信仰を集め、特に霊元天皇の母・敬法門院が熱心な信者として宮中に信仰を広めたと伝わります。その後、天明八年(1788)の大火により、華芳塔堂と大門を残し焼失しましたが、同年に住持となった四十九世日遂上人以降の歴代貫首によって整備され今に至っています。



さて、境内を見てみると、本堂・祖師堂・華芳塔堂・華芳宝塔・大門の5棟が京都府指定有形文化財となっていますが、特に大門は聚楽第の裏門とも伝えられ天明の大火で残った貴重な表門です。本瓦葺の切妻造の薬医門形式の豪華な門です。桜とマッチして絵になることでも知られています。(写真)
境内中央にあるのが祖師堂(御影堂)です。宗祖日蓮上人坐像(京都府重要文化財指定)と、左右に日朗、日像両上人坐像を祀っています。(この内部も公開されています。)これらの坐像は等身大で桃山時代の作です。

本堂の北にある小さなお堂=華芳塔堂内も天明の大火で残った室町時代の貴重な建築です。
内部には日蓮上人が彫ったと伝えられる華芳塔が多宝塔内に納められて祀られています。(写真)これは若き日の日蓮上人が比叡山で学んでいた時、法華経一巻を石造りの塔に納めたもので、その後元亀二年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ちの際、岩倉村の山本修理亮という者がこの石塔を見つけて持ち帰り妙覚寺に納めました。後にこの石塔を納める木造の多宝塔が造られ一堂も造られました。(石塔は華芳塔、多宝塔は華芳宝塔、掛堂は華芳塔堂と名付けられていて、京都府の有形文化財に指定されています。)寺宝として、重要文化財指定の日蓮上人筆の盂蘭盆御書(うらぼんごしょ)や先程の斎藤道三公遺言状等があります。


玄関、庫裡を通って、本堂の庭を鑑賞します。
この庭園は「法姿園」と名付けられていて、前庭・中央・奥庭の3つに分かれています。前庭は本堂前の唐門、大塀に囲まれた方形の庭です。(写真)
杉苔が一面に植えられ、楓を中心に松や桜も植えられています。シンプルという以外には説明が難しい落ち着いた庭で、特に秋の紅葉シーズンは見ごたえがあります。苔と木々だけの空間からは、余計なものはいらない・・ただ夫々の季節を鑑賞して欲しいという意図を感じます。

中庭は本堂と書院の間にある50坪程度の方形に庭です。ここには樹齢百年を超える五葉松、赤松等が植えられています。奥庭は石庭と茶庭で構成されています。
最後に少しはなれた境外墓地には、日蓮・日像・日朗の三聖人を祀る三菩薩目笠塔婆と言う供養塔があります。また狩野元信・永徳以下の歴代狩野家の墓があります。(写真)
中央は元信の墓で、それ以外は磨耗のため不明です。


妙覚寺は、まず大門の桜(写真)が写真ファンを集める場所です。庭はやや面白みに欠けますが紅葉は見ごたえがあります。全体にやや地味で観光的には知名度はまだ低く訪れる人も少ないので、お茶菓子を頂きながら静かな時を過ごせるかもしれません。

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