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西行きの市バスで大徳寺前の停留所で降りると、すぐ南にある小さなお寺が大徳寺の境外塔頭の雲林院です。大徳寺に行く度に、気になっていたお寺ですが今回訪ねてみました。
実は、このお寺は大徳寺が創建される前は、この辺りに広大な寺域を持っていた由緒あるお寺です。
北区紫野雲林院町にある雲林院は、現在は大徳寺に属する臨済宗寺院ですが、平安時代に溯る由緒ある寺院です。かって平安時代には、この付近一帯は紫野と呼ばれた荒野で狩猟も行われていました。
淳和天皇(在位823〜833)は、この地(現在の大徳寺の辺り)に広大な離宮「紫野院」を造り度々行幸したと言うことです。また桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われていました。そして天長九年(832)に紫野院に行幸した際に、雲林亭と改名したと言うことです。
雲林亭は、次代の仁明天皇の時に皇子の常康親王に伝えられ、親王が出家した後の貞観二年(869)遍昭僧正を招いて譲渡し、寺院とし雲林院と称しました。このように、雲林院は当初、天台宗の官寺として創建され、後に遍昭僧正により花山元慶寺の別院となります。その頃は多くの塔頭を持つ大寺院だったようです。
さて、雲林院は当時非常に有名なお寺だったため、多くの文学作品に登場してきます。
「源氏物語」の「賢木の巻」では桐壷帝の崩御の後、光源氏が藤壷中宮に求愛し拒絶された後、雲林院に参籠する場面出てきます。ちなみに、前にブログで採り上げましたが、北区紫野西御所田町に紫式部の墓がありますが、この墓のある場所は雲林院の塔頭・白毫院の南側と記録にあるので、寺域も広かったことが想像できます。
また雲林院は法華経を集まって講じる菩提講で知られるようになり、歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔話として展開します。「枕草子」でも清少納言が賀茂祭の祭りを雲林院の近くで見たようです。さらに「平家物語」でも鹿ケ谷の変で捕らえられた藤原成親の妻子が雲林院に逃げ込んでいます。
古今集の歌枕としても登場します・・「雲林院の木のかげにたたずみてよみける わび人のわきて立ち寄る木のもとは頼むかげなく紅葉散りけり」(古今集から遍昭僧正)さらに西行の歌にも出てきます・・・「これやきく雲の林の寺ならん 花を尋ねるこころやすめん」(西行)
また、謡曲「雲林院」はそうした雲林院の華やかな時代を偲んで作られています。
摂津の国芦屋の在原公光という人物が、幼少時から伊勢物語を愛読し心酔してきました。ある夜、在原業平と二条の局が雲林院で伊勢物語を持って佇んでいるという夢を見たので、不思議に思って雲林院を訪ねます。そこに現われた老爺の勧めで花の下でまどろんでいると、やがて公光の夢に業平の霊が現れ、伊勢物語の秘伝(恋愛の事)を語り、その時の思いでのままに桜月夜の中で優雅な舞を見せます・・そして公光は目覚めると言うストーリーです。
しかし、平安時代に栄えた雲林院は、鎌倉時代中期頃から急速に衰退し、鎌倉時代末期の正和四年(1315)、大燈国師(宗峰妙超禅師)がこの地に大徳寺を開き、花園天皇から雲林院の土地を賜わります。その後は記録も残っていませんが、応仁の乱以降は廃寺となったようです。
その後、江戸時代の宝永年間(1704〜1711)に大徳寺の江西宗寛和尚が、大徳寺の前身でもある由緒ある寺として、跡地に観音堂を再建しました。これが現在の観音堂で、大徳寺の開山・大燈国師像と十一面観音菩薩を祀ります。こうして再建された雲林院ですが、今も本堂も無く観音堂のみの小寺で、先代の住職までずっと無住が続き地域の住民の力で維持されてきたということです。
近年、雲林院町にあるマンションが建築された際、工事現場から雲林院の客殿跡が発見され、大徳寺の境内〜雲林院町〜北大路堀川にかけて広大な寺域を誇った寺院の姿がまた少しわかってきたようです。現在の雲林院からはかっての栄華は想像出来ないですが、平安文学の中にその名が記録されているだけでも救われているのかもしれません。
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