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今宮神社、川上大神宮と同日に、紫野雲林院町の玄武神社でもやすらい祭が行われました。
この玄武神社のやすらい祭は、他の2つとは違って今宮神社の疫神社とは関係なく玄武神社独自の祭です。
玄武神社の沿革を簡単に書いてみます。
北区紫野雲林院町にある玄武神社は、前に登場した雲林院の近くにある小さな神社です。
玄武神社の社号「玄武」は、古代中国から伝わった王城守護の四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の一つ、北の鎮護神「玄武」に由来しています。
祭神は、文徳天皇の皇子・惟喬(これたか)親王で、「惟喬社(これたかしゃ)」とも呼ばれてきたようです。惟喬親王は第一皇子でしたが、権力を握る藤原氏との縁が薄く、藤原氏の圧力により皇太子の地位を、生後1歳の弟惟仁親王(後の清和天皇 藤原良房の娘の子)に譲らざるを得なかった悲劇の皇子です。また、その後山に篭って轆轤(ろくろ)の技術を付近の住民に伝え、木地師の元祖とも呼ばれる伝説的な生涯でも知られる人物です。
社伝によると、創建は平安時代の陽成天皇の元慶二年(878)、惟喬親王の母方の末裔で大宮郷の郷士・星野市正紀茂光(ほしのいちのかみしげみつ)が、悲運な生涯だった親王の御霊を慰めるために、また王城北の鎮護の地の守護神として、親王の外祖父・紀名虎(きのなとら)が所持していた親王愛蔵の剣を「御霊代(みたましろ)」として奉祀して祀ったと伝えられます。またかっては、玄武の亀との関係から境内の池に亀が多く放育されていたので、「亀宮(かめのみや)」とも呼ばれたようです。
尚、現在の社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたものです。
さて、平安時代の康保三年(966)、前年に起こった大水後に疫病が流行し、これを鎮めるため、勅命を受けて玄武神社で鎮花祭を行ったと伝えられ、これが京都最初の鎮花祭と言うことです。
その後、長保元年(999)から翌年にかけて、再び疫病が流行したために、同年(1000)に鎮花祭が再び行われ、それ以後は永代勤めるよう勅命を受けたと伝えられます。
現在もこの毎年の第2日曜日に「玄武やすらい祭(玄武やすらい花)」が行われますが、玄武神社の氏子地域はかなり広いために、4班編成で担当範囲を練り歩くようです。まず早朝の午前8時半〜9時頃に出発し12時頃帰社します。午後1時〜1時半に再度出発し6時頃帰社することになっているようです。また午後1時半からは、別に行列が氏子内を巡行しているようです。
(写真は12時ごろに帰社した時のものです。)
玄武神社の祭行列は、氏子地域が広いこともあって子供達の参加も多く元気な印象です。
玄武神社、今宮神社、川上大神宮と三ヶ所のやすらい祭を追ってみましたが、各地域の暖かい雰囲気が感じられて良かったです。
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ありがとうございました。楽しく興味深く見せてもらいました。昔は季節を大切にしていたんですね。「鎮花祭」は、花が咲き乱れ散り始めるときは、気温の変化や体調の変化に十分に気をつけなければならないことなんでしよう。今はちょっと昔の生活を振り返るときかもしれません。
2007/4/12(木) 午前 4:01 [ sak*ra8**kik*777 ]
そうですね。昔から季節の変わり目に祭が行われているのは、人が生活する上での深い知恵があったのでしょうね。ライフスタイルは変わりましたが、昔の人に学ぶ事は多いですね。
2007/4/12(木) 午後 6:23 [ hir**i1600 ]