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右京区太秦東蜂岡町にある悟真寺は浄土宗寺院です。
有名な広隆寺の東北にあるお寺ですが、捜しても中々見つからないかもしれません・・・実は境内の大部分は「自然幼稚園」という名前の幼稚園になっていて、近所の方もわからないようなお寺です。
この幼稚園は、約2200坪の敷地内に、桜やもみじ、柿、栗、いちょう等の大木を50本余植えて、四季折々の草花が咲くそうです。ウサギ、アヒル、鶏、孔雀、鳩、モルモットなど沢山の動物を飼育していて、運動会もできる800坪の園庭、そして約500坪余の花壇や野菜畑では、子供達がサツマイモ、ジャガイモ、きゅうり、トマト、大根等の栽培をしているそうです(幼稚園のHPを引用させていただきました)
この幼稚園の奥がお寺になっているので、怪しい人と間違われないように幼稚園内に入ることになります。申し訳程度の小さな山門がありますが、お寺の中に幼稚園があるというより、幼稚園の中にお寺があるといった印象です。
さて、悟真寺は、円山応挙の墓があるので、通称「応挙寺」とも呼ばれますが、それ以外に特に見所があるわけでは無さそうです。元々は四条大宮にあり、応挙を始め円山一族の菩提寺となりました。その後昭和の初期に現在の地に移って来ました。
円山応挙(1733〜95)は、丹波国(京都府亀岡市)の農家に生まれ、京都で狩野派の流れをくむ石田幽汀に学びます。こうして狩野派の伝統的な画法を修得すると同時に、当時日本に入ってきた写実的な西洋画法を応用して、覗き眼鏡を通して立体的に見て楽しむ「眼鏡絵」の制作も行っています。
そして応挙の一番の功績は「写生」の重要さを近世日本画に流行させたことでした。応挙は暇さえあれば動植物その他のスケッチに取り組み、それが細密描写に優れる応挙独特の美しい画法を生み出しました。やがて千人もの応挙の弟子達が、写生を重視した「円山四条派」と称される一派を発展させ現代までの京都画壇の源流となっていきます。こうして応挙は寛政七年(1795)63歳で死去し当寺四条大宮にあった悟真寺に埋葬されました。
さて、現在の悟真寺の墓地は小さく、円山家一族の墓地はすぐわかります。本堂の間から墓地が見えますが、正面に応挙の墓が見えています。(写真2)
円山一族墓は、墓地の一番前に5基並んでいます。正面に一際堂々とした応挙の墓を中心に、向かって右隣に応瑞(応挙の長男。二世)、その右に応立(応震の養子。四世)左側には応震(応瑞の養子。三世)、応誠(五世)になります。応挙の墓には「源応挙墓」と刻まれていて、これは光格天皇の弟・妙法院宮真仁法親王の筆と伝えられています。
これまでも歴史上の有名人の墓のある寺院を採りあげてきましたが、これまでのお寺と同様にこのお寺もお墓以外には、特に見所が有るわけではありません。しかし応挙に関心のある方には一見に値するでしょう。
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