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前回の厭離庵の続きとして小さな史跡を採りあげました。
清涼寺から厭離庵の前を通って鳥居本方面に続いているのが愛宕街道です。この街道沿い、厭離庵の南に「中院(ちゅういん)山荘跡」の京都市の掲示板があり、小倉百人一首ゆかりの地と記されています。
前回に書いたように、鎌倉時代初期、この地には蓮生入道(宇都宮頼綱)の中院山荘がありました。蓮生入道は、俗名・宇都宮頼綱といい、下野国(現栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力御家人の一人でした。しかし、北条氏に立場を疑われるなど政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信坊蓮生と名乗りました。(この時に郎党60余人も同様に出家したと言う事です。)後に上洛し、法然上人、ついで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだと言うことです。
蓮生は和歌の名手で、付近の小倉山山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、蓮生の娘が定家の子・為家に嫁いでいます。嘉禎元年(1235)、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じて、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書きました。小倉百人一首はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどして完成したものと言われています。
さて、中院山荘を、蓮生から受継いだのは定家の子・為家でした。この為家の墓が、厭離庵の東側の小さな公園の隅にあります。(写真)
為家は建治元年(1275)に死去し、この厭離庵東に埋葬されたと伝えられ、「中院入道前大納言藤原為家卿之墓」の石標が立っています。その数m先に小さな崩れ落ちたような石塔があり、石灯籠には「中院入道殿御墓表」、「為家卿之墓」と刻まれています。またその横には「定家卿墳遙拝所」と記されています。
また、愛宕街道沿いに、慈眼堂(中院観音)があります。(写真)
小さなお堂ですが、本尊の木造十一面千手観音立造は、藤原定家の念持仏と伝えられ、仁治二年(1241)、定家が80歳で亡くなった後、為家が伝領して、為家からこの中院地域の人々に与えられたものと伝わります。その後長くこの地の豪農・浜松屋善助の屋敷内の堂に祀られ、文政五年(1822)に住民らにより現在の地に祀られたと言うことです。像は寄木造・漆箔・彫眼技法によって制作された鎌倉初期の作で、京都市の有形文化財に指定されています。
尚、慈眼堂では中院地区の人々が、毎年正月十四日の夜から十五日の日の出まで「日待(ひまち)」の行事を行い、また定家、為家の法要を行っているそうです。堂内にはその他定家・為家等の位牌や毘沙門天立像を祀ります。
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いいなあ、この感じ。
2007/5/7(月) 午前 0:03 [ zen*o*hara6* ]
ご訪問ありがとうございます。普通の京都ガイド的なものですが、地味に書いております。
2007/5/7(月) 午前 8:59 [ hir**i1600 ]