|
右京区梅津フケノ川町にある梅宮大社は四季の花が楽しめる神社です。
祭神は、大山祇神(おおやまずみのかみ 酒解神)、瓊々杵命(ににぎのみこと 大若子神)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと 小若子神)、木花開耶姫命(くこのはなさくやひめのみこと 酒解子神 )の父子三代の神と孫神の母神四座です。
木花開耶姫命(くこのはなさくやひめのみこと 酒解子神)は、瓊々杵命(ににぎのみこと 大若子神)と一夜の契りで彦火々出見命(ひこほほでみのみこと 小若子神)を身ごもって、喜んだ姫は狭名田(さなた)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造って飲んだという神話から、梅宮神社は安産と子授けの神、また造酒の神として古くから信仰を集めました。
社伝に拠れば、梅宮神社は、奈良時代の政治家として知られる橘諸兄の母・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ 後に藤原不比等の夫人)が、橘氏の本拠地・山城国相楽郡井出庄(現・綴喜群井出町付近(前にこのブログで採りあげました橘諸兄の旧跡のある地です)に、橘氏の氏神として創建したと伝わります。県犬養三千代が橘氏の祖でもり、藤原不比等の夫人となった関係から、橘氏と同じく藤原氏の摂政関白家も藤原氏氏神の春日神社と同様の崇敬を捧げました。
その後、天平宝字年中(757〜65)、県犬養三千代の娘で、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂夫人の牟婁(むろ)が平城宮に遷座し、さらに泉川(木津川)の上流鹿背(かせ)山を経て、平安時代初期に、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)によって現在の地に遷されたと伝わります。橘嘉智子(檀林皇后)が自身御幸して盛大な祭儀を行ったのが、梅宮祭の起源と言うことです。
また文徳天皇の仁寿年中(851〜3)に橘清友(橘嘉智子の父)、橘嘉智子(檀林皇后)、嵯峨天皇、仁明天皇(橘嘉智子と嵯峨天皇の子)が相殿四座に祀られています。その後、延喜式の名神大社に二十二の大社(下八社)に加えられ、明治四年(1871)に官弊中社に列せられました。
現在の本殿、拝殿、幣殿、廻廊、中門、末社の若宮社・護王社等は元禄十一年(1698)に火災により焼失し、五代将軍綱吉公の命により元禄十三年(1700)に再建されたもので、本殿、若宮社、護王社、楼門、拝殿は京都府登録文化財となっています。
また、神域の奥、本殿の横には「またげ石」という石があって、跨ぐと子宝に恵まれるといわれています。橘嘉智子(檀林皇后)が跨いで皇子(後の仁明天皇)を授かったと伝えられ、以来血脈相続の石として信仰されているそうです。
他に神苑内に非公開の茶席「池中亭」があります。
平安時代以降、神社のある梅津地域は貴族の別荘が建ち並んだ地で、源師賢の山荘もその一つでした。
この茶席は「芦のまろ屋」とも呼ばれ、平安時代の梅津の里の風景を歌った百人一首「ゆうさればかどたのいなばおとずれて あしのまろやに秋風ぞふく(大納言 源経信)」の歌の舞台として今に残る唯一の萱葺き建物と言うことです。(現建物は嘉永四年1851の建築)
最後に、梅宮大社が観光的に人気があるのは、四季の花が咲く神苑があるからです。
神苑は、大堰川の水がひかれた大池を中心に3つの部分から成ります。梅林を中心とする西神苑、中島にある茶席「池中亭」を囲んで咲耶池の周りに、かきつばた、花菖蒲、霧島つつじが連続で咲く東神苑、紅玉池を中心に花菖蒲、八重桜、平戸つつじ、あじさいが咲く北神苑です。他にも椿や水仙、紅葉も楽しめる久々にお勧めできる神社です。
次回にもう少し写真を掲載します。
|