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東山区に馬町(うままち)という場所があります。付近で馬の市が開かれていたことからいつしか馬町と呼ばれるようになったとも言われ、下馬町と上馬町に分かれます。清水寺のある東山五条と、三十三間堂や智積院・妙法院等が建ち並ぶ東山七条の間の小さな区域で、京都女子大学の北に面しています・・・この地域から小さな史跡を採り上げました。
まず、東大路通の馬町交差点から、渋谷(しぶたに)通という京都から山科へ通じる道を東へ歩くと、北側に「佐藤継信・忠信塚」という石碑があります。
この地は、源義経の四天王として知られる佐藤継信・忠信兄弟の墓があったと伝えられてきた場所です。佐藤継信・忠信兄弟は,奥州の藤原秀衡の家臣でしたが、源義経が鎌倉の兄・頼朝の元へ参陣した際に、秀衡の命により義経に随行し、以後義経の下で平家軍と戦いました。継信は屋島の戦いで平教経が義経を狙って放った矢を受けて戦死。また忠信は、義経が頼朝に追われて吉野に逃れた際に、義経を逃れさせるため自ら義経と称して奮戦し、その後京の義経の館に戻って討手と戦って自害しました。
さて、元々この場所には6mを超える巨大な「馬町十三重石塔(うままちじゅうさんじゅうせきとう)」と呼ばれた、鎌倉時代の見事な十三重石塔が建ち、佐藤継信・忠信の塚であると伝えられてきました。この塔は現在、京都国立博物館の前庭に移されています。(庭園の南に美しい姿を見せています。約6メートルの巨大塔は博物館より元の地で見たい気がしますが・・)この塔は、実際は佐藤兄弟とは関係の無い供養塔のようですが、謡曲や歌舞伎等により佐藤兄弟の人気が高まり、いつしか墓であるという伝説を生んだと思われます。
現在、塔が建っていた露地の奥には、「佐藤継信・忠信之墓」という石碑が残されています。(写真)
またその横には、「佐藤政養招魂之碑」、や「佐藤文襃翁之碑」という石碑が建っています。(写真)
佐藤政養は、出羽の出身で、勝海舟の門人として神戸海軍塾の塾頭を務めた人物です。明治時代には、新政府のもとで工部省に出仕、初代鉄道助(現・運輸次官)に就任して新橋〜横浜間の鉄道敷設に尽くした日本鉄道界の先駆者です。佐藤政養は先祖と伝わる佐藤継信・忠信ゆかりのこの土地を購入していて、この顕彰碑は彼の死後、師の勝海舟篆額による碑として建立したと言うことです。
「佐藤継信・忠信之墓」からもう少し東へ歩くと、上馬町に小さな神社があります。ビルの隙間にはまっているような小さな祠・・・これが三嶋神社(三島神社)です。(写真)
小さな神社ですが、秋篠宮殿下が二度も来られている由緒ある神社で、祭神は天津日高彦火瓊瓊杵尊(あまつひたかひこほのににぎのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、木之花咲耶姫(このはなさくやひめのみこと)です。
創建は平安時代末で、後白河天皇の中宮、建春門院(平滋子)が、皇子の生まれないのを憂いて、摂津の三嶋大明神に祈願したところ霊夢を感じて、後の高倉天皇を生みました。これに喜んだ後白河天皇は、永暦元年(1160)この地に邸宅を持っていた平重盛に命じて社殿を造営し、三嶋大明神を勧請したのが、三嶋神社の起こりということです。以来、皇室の尊崇篤く、度々安産加護を祈願し、現在も、安産の神として信仰されているようです。当時はもちろん大きな神社で、江戸の名所図会でも境内には妙見堂、稲荷社、天満宮、祇園社、猿田彦社が建ち並んでいたことがわかります。しかし近年、付近の地域開発により元地を手放して、移転を決めたもの移転先で建設許可が下りず、土地も手放してしまったため、やむなく東山区本町の瀧尾神社の境内に間借りすることになりました。その後、現在の地に土地所有者の好意で小さな社殿が建てられたということで、祈願所は瀧尾神社内にあります。
尚、横にある石は、「揺向石(ようこうせき)」です。
承安四年(1174)、牛若丸(源義経)が、この三島神社に参籠した際、夢の中に白髪の翁が現われ、「汝志久しく可からず、早々に奥州に下る可し」との御神託があり、夢よりさめて再拝し翁の立っていた所を見るとこの石がありました。以来「揺向石」と呼ばれ妊婦が三嶋神社に参拝し、男子を授かることを祈願して、この石に手を触れお腹をなでると牛若丸のような立派な男の子が授かると古くから伝えられています。
三嶋神社は、安産加護と夫婦和合の神で、ウナギが祭神の使者になります。そのために、絵馬にはウナギの絵が描かれています。そして神社に祈願する人や神社地区の人々はウナギを食べない風習があったということです。
最後に、三嶋神社から上馬町を少し東へ向かうと正林寺があります。
正林寺は、正式には清涼山光明真言院正林寺という浄土宗の寺で、通称を小松谷正林寺と呼ばれます。平安時代この地は小松谷と呼ばれ、平清盛の長男重盛(小松殿と呼ばれました)の邸宅があった場所です。その後関白九条兼実の別邸となり、兼実から譲られて浄土宗開祖法然上人の寺坊(小松谷御坊)となりますが、承元元年(1207)法然の流罪等もあり、その後廃絶しました。現在の正林寺は、江戸時代の享保十八年(1733)義山・恵空上人が、北野にあった正林寺を移して中興したものです。本堂は宝暦年間(1751〜64)に建設されたもので、本堂に阿弥陀如来像、大師堂に円光大師(法然)像、九条兼実、聖光国師像を祀っているようです。
境内は幼稚園になっていて、門をあけて幼稚園内を通らなければ本堂には行けないので写真は撮れませんでした。門前には、正林寺中興以前の小松谷御坊の跡を示す「小松谷御坊旧跡」の石碑、「円光大師(法然)旧跡」の石碑が立っています。
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三嶋神社が大山祇命、木之花咲耶姫を祀るということは大三島神社の系統でしょうね。摂津の三嶋大明神はどこにあるのでしょうか?
2007/10/15(月) 午前 9:55 [ ciaocommodore ]
詳しくないのですが、大阪府高槻市三島江にある三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)が、どうもそれらしいようですよ。当時は淀川の河口に辺る地域だっため、水運の守り神として大山祇命を祀ったようです。
2007/10/15(月) 午前 11:11 [ hir**i1600 ]
ああ、矢張り加茂ですか。加茂・三嶋は一緒なんでしょうかね。
2007/10/18(木) 午後 10:04 [ ciaocommodore ]