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京都市の下京区は、南北をJR京都駅〜四条通、東は鴨川西岸沿い、(西端は階段状に入り組んで、四条大宮から西高瀬川にいたる説明不可能な形をしています。)という小さな行政区域です。
下京区の歴史的な観光名所としては、東本願寺、西本願寺、渉成園(枳穀邸)がすぐに思い浮かび、他に大きなお寺としては興正寺と仏光寺といった程度でしょうか?京都の中心となる繁華街区域のために、目立った寺社は少ない地域ですが、細かく見ていくと、このブログでご紹介しても良い感じの寺社が幾つかあります。特に、河原町五条付近の本塩竈町には注目したい寺社が集まっています。エピソードのある寺社は単独で採り上げることとして、今回は少しマイナーな2つのお寺を採り上げました。(全て京都市の案内板を参照します)
この河原町五条付近にある本塩竈町ですが、平安時代に嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院という別荘があった場所でした。河原院は南北を現在の正面通〜五条通、東西を鴨川〜柳馬場通という八町に及ぶ広大な敷地だったとも伝えられ、鴨川から水を引き入れた広大な池庭は、陸奥国の塩釜の浦の美しい景観を再現する為に、わざわざ難波(大阪)から毎日海水を運ばせたとも伝わり、現在の本塩竈町という町名はこの話に由来しています。前に採り上げた渉成園(枳穀邸)の庭園は河原院の遺構として知られますが、今回の本覚寺も河原院の跡地になります。
さて、下京区富小路通五条下ル本塩竈町にある本覚寺は、山号を佛性山(ぶっしょうざん)という浄土宗寺院です。寺伝によれば、元々、鎌倉三代将軍・源実朝が暗殺された後、その夫人の坊門信子(ぼうもんのぶこ 西八条殿)が剃髪し本覚尼と称し、貞応元年(1222)に夫の菩提を弔うために建立した遍照心院(大通院とも)の境内に建てられた塔頭と伝えられ、寺名は信子の法名本覚に由来しています。尚、開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚です。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱で焼失しますが、室町幕府の管領・細川政元により高辻烏丸に再建せられ、14の塔頭を持つ本山となったということです。後柏原天皇の勅願寺ともなりますが、天正十九年(1591)、豊臣秀吉の命により現在の地に移りました。境内墓地には江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓があり、また河原院ゆかりの寺宝として、源融像や塩釜神社の額が収められています。
続いて、本覚寺の南にある新善光寺です。
善光寺という寺名を名乗るお寺は全国的に100以上もあるそうで、(京都市内では東山区の泉涌寺の塔頭にも同名の寺院があり、他に曼殊院門跡と大雲寺(左京区)、清水寺善光寺と得浄明院(共に東山区)、善光寺と末慶寺(共に下京区)、龍雲寺(伏見区)、福應寺(山科区)が正式名称に善光寺の名を用いているそうです。)信州の善光寺がいかに全国的に信仰されていたかがわかります。
さて、この新善光寺は、来迎堂とも呼ばれる浄土宗寺院です。本堂に安置する本尊・阿弥陀如来像は、信州善光寺を創建した本田善光の子、善助によって善光寺本尊の阿弥陀像の分身として同型に造られたと伝えられます。元々この阿弥陀像は、南都(奈良県)にあったのですが、天仁二年(1109)に堀川松原の地に伽藍が建立された際に、安置されたと伝わり、以降、来迎堂新善光寺と呼ばれ、多くの参拝者を集めたということです。応仁の乱で焼失した後は、各地を転々とし、天正十九年(1591)に、豊臣秀吉の命により現在の地に移されました。江戸時代に、幕府より御朱印の寺領を受けて信仰を集め栄えたようですが、天明の大火(1788)や、幕末の禁門の変の際の元治の大火(1864)で焼失し、現在の堂宇は、その後の再建ということです。
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