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下京区富小路通五条下る本塩竃町にある上徳寺は、この地域では良く知られたお寺で「京のよつぎさん」として親しまれています。
上徳寺は、山号を塩竈山(えんぞうざん)と号する浄土宗寺院です。
前回と同じく、このお寺も源融ゆかりの河原院跡地に建つお寺の一つで、塩竈山という山号は、源融が陸奥の塩釜の浦の景観をそのまま河原院に再現するため、難波(大阪)から毎日海水を運ばせて塩を焼かせたという話に由来しています。この河原院で貴族達が詩歌管弦を楽しんだ様子は、紫式部や在原業平らにより今日に伝えられています。(ご住職も塩竈という苗字ということです。)
さて、寺伝によれば、上徳寺の創建は慶長八年(1603)、徳川家康によって、家康の側室・阿茶局(上徳院、後に雲光院と号します)を開基とし、局の叔父にあたる伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招いて建立した寺院ということです。阿茶局は、才知に長け、大坂の陣の際には講和の使者を勤めるなど、家康が特に信頼した側室として知られます。家康はその才覚を惜しみ、自身の死後も剃髪し尼となることを許さず次期将軍秀忠に仕えるようにと遺言を残しました。こうして阿茶局は2代将軍秀忠、3代将軍家光に仕えて外交面で活躍し、徳川和子入内の際には、後水尾天皇より従一位を賜っています。秀忠の死後に出家して雲光院と号し、寛永十四年(1637)83歳で死去し、雲光院(東京都江東区三好)に葬られました。
上徳寺の解説として「徳川家康の息女泰誉院と、その生母である上徳院の菩提を弔うために創建された寺院」と書かれることが多いですが、やや曖昧な表現のように思います。上徳院(阿茶局)は開基であり、その死は寺院の創建より34年後なので、菩提を弔うために創建というのとは少し違うようです。また上徳院(阿茶局)は、一度の流産以外に、家康との間に子供は無かったので、「泰誉院」は流産した子になるのでしょうか?この泰栄院の宝筐院塔と阿茶局の供養塔(墓)が境内墓地にあります。
上徳寺の堂宇や塔頭は、天明の大火(1788)や幕末の禁門の変の際の元治の大火(1864)で焼失し、現在の堂宇は全て明治時代の再建になります。この内、本堂は明治時代に永観堂の祖師堂を移築したものです。(永観堂祖師堂は宝暦三年(1753)の建立)。堂内には、創建時に家康が、江州矢橋(やばせ 滋賀県)の鞭崎(むちざき)八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置しています。また、境内山門付近には、江戸時代の冠句の唱導者・堀内雲鼓の句碑があり、境内墓地に雲鼓の墓があります。
さて、このお寺が有名なのは、地蔵菩薩があるからです。地蔵堂は、明治四年(1871)に再建されたもので、高さ二メートル余の石造地蔵菩薩像を安置しています。この地蔵菩薩は、「世継地蔵」と呼ばれて、江戸時代から良い世継が授かる御利益があるとして多くの人々の信仰を集めていきました。
伝説では、明暦三年(1657)、上徳寺に帰依していた清水某という人物が、一子を失ったため世継の子を授かれるようにと本堂に篭って祈願した所、地蔵菩薩が現れます。男はその地蔵像の姿を石に刻んで祈願を続けたところ、一子を授かったということです。また、享保年間(1716〜35)に、上徳寺の住職が深夜勤行をしていると地蔵菩薩が現われ、「子無き者には子を授け、幸せ薄きものには福を授ける」と告げたということで、この話が広まり信仰者を集め、さらに明治天皇の生母・中山慶子が、この地蔵菩薩を熱心に信仰し、そのおかげで明治天皇が誕生したというエピソードが加わって信仰が広がったということです。
現在も安産・子授け祈願、無病息災等の守り本尊として、京都市内だけでなく全国からも参拝者が訪れます。特に、2月8日の世継地蔵尊大祭では、山伏による柴灯護摩供などが行われ千人を越える参拝者があるそうです。また、地蔵堂の周りには水子地蔵、身代わり地蔵等も祀られています。
境内は、前にブログで採り上げた西陣の釘抜地蔵(石像寺)に少し似ていて、庶民の信仰を集めるお寺らしい親しみやすい空間になっています。
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貴重な情報ありがとうございました。
色々な寺院等を訪問していると、なぜこんな所に?というような史跡がありますが、中々その由来まで記している本は少ないですね。私が上徳寺を訪れたのは1年半以上前だと思いますが、また訪問したくなりました。
2009/1/22(木) 午前 8:45 [ hir**i1600 ]