|
下京区富小路五条下ル本塩竈町の寺院が続きます。
まず長講堂(ちょうこうどう)です。長講堂は西山浄土宗に属する寺院で、2年前に本堂や寺宝が特別公開されたことがありますが、普段は非公開(予約することで拝観も可能なようです)です。
長講堂は、平安時代末期の寿永二年(1183)、後白河法皇が西洞院六条にあった近臣・平業忠の邸宅を譲り受けて築いた院御所・六条西洞院殿(六条御所)内に建立された持仏堂で、六条長講堂と呼ばれました。創建は寿永二〜元暦元年(1183〜84)頃と考えられ、正式名称は「法華長講弥陀三昧堂」といい、法華経を永遠に講じて、阿弥陀仏を念じて三昧境地に入る道場という意味ということです。
文治四年(1188)に六条殿が焼失した際に長講堂も焼失しますが直ちに再建されます。当時の長講堂は壮大な寺院で、本堂、御影堂等諸堂が建ち並んだ豪華な建築物でした。また、後白河法皇は、崩御する直前に膨大な所領と荘園を長講堂に寄進します。この長講堂領は皇室最大の財産として、上皇の死後、宣陽門院(覲子内親王)に伝えられ、その後持明院統に相続されます。そして持明院統と大覚寺統との間の迭立問題で持明院統が経済的に優位に立つ原因となり、南北朝時代の北朝成立の経済的基盤となったのでした。
さて、このように非常に重要な寺院でもあった長講堂は、承元二年(1208)、貞応元年(1222)に焼失し再建、文永十年(1273)に焼失した際に土御門油小路に移転再建されました。その後建治三年(1277)に焼失・再建されますが、応仁の乱以降は各地の長講堂領は侵食されて縮小して長講堂は急速に衰退し、天正年間(1573−92 天正十八年(1590)とも)豊臣秀吉の洛中整備により現在地へ移転しました。その後元治元年(1864)禁門の変で類焼し、現在の建物はその後の再建になります。
本堂に安置されている後白河法皇の臨終仏と伝わる本尊の木造阿弥陀如来像と両脇侍像は平安時代の作で重要文化財に指定されています。また御影堂に安置される江戸時代作の木造後白河法皇御像も重文指定で、この法皇像は毎年四月十三日に行われる法皇忌法要の際に開扉されます。その他後白河上皇自筆画像、法皇宸筆とされる過去帳を所蔵しています。
今回は山門から見える綺麗な前庭の写真のみですが、機会があれば覗いてみたい整ったお寺です。
続いて、同じく、河原町通六条上る本塩竃町にある延寿寺(えんじゅじ)です。
長講堂の裏(東)になるこの寺院も非公開寺院ですが、後白河天皇の六条殿に創建された仏堂にはじまります。
丈六の金銅の釈迦、阿弥陀、大日の三尊を祀っていましたが、六条院の衰退後に仏堂は独立して現在の地に移り延寿寺と称します。金仏寺(かなぶつでら)と通称されて世に知られる存在だったようですが、幕末の元治元年(1864)禁門の変で類焼し本尊は焼失、現在は金仏を模した木像が祀られています。
|