京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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下京区富小路五条下がる本塩竃町のお寺が続きます。

蓮光寺は、戦国大名の長宗我部盛親の墓があることで歴史ファンには知られるお寺かと思います。
このお寺は観光寺院では無いですが、歴史ファンが多く訪れるためか、境内に駒止地蔵や長宗我部盛親の墓の位置や解説を記した掲示板を設けていて、訪問者に親切なお寺という印象です。HPを参考にさせていただき書いてみます。

蓮光寺は、山号を負別山(ふべつさん、また、おいわけざんとも)という浄土宗寺院で、明応元年(1492)、天台宗真盛派の祖・真盛上人(1443〜95)が、高野山の苅萱堂を模して下京区新町高辻に草庵を結んだことに始まり、当初「萱堂」と称していたようです。その後、天正十九年(1591)、豊臣秀吉の命により現在の富小路通り六条に移りました。また、真盛上人の弟子・玉譽光順上人が浄土宗に改め、二世順譽蓮光上人の時代に寺号を蓮光寺と改称したと伝えられます。
当時の本堂は、中井大和守正清(大阪城他を設計した大工頭)の帰依を受けて正保年間(1644〜1647年)に建立したもので、元禄十三年(1701)に勧修寺二品法親王より山号「負別山」の染筆を下賜されました。その後、堂宇は天明八年(1788)の「天明の大火」や元治元年(1864)蛤御門の変の「元治の大火」で焼失し、明治二十九年(1896)に再建されました。老朽化により昭和五十八年(1983)に本堂の改修と書院、庫裏の再建が行われています。





本堂に祀られる本尊阿弥陀如来像は、鎌倉仏師として有名な快慶(安阿弥)の作と伝えられ、寺伝によると次のような物語が記されているようです。
快慶はある夜、夢の中で「東国より客僧が来て仏像の彫刻を求めるので、その願いを適えるように」との聖僧のお告げを受けます。翌日、お告げとおり1人の旅僧が訪ねて来ました。僧は、奥州湯殿山に庵室を結ぶ覚明という者で、かねてより御本尊が無いことを嘆いていたが、夢のお告げで上洛して快慶に尊像を請えとのお示しによって参上したということでした。互いの霊夢に驚き喜んだ2人は、来年春に仏像を受け渡す事を約束し別れます。
こうして、快慶は一刀三礼のもとに約百二十日をかけて丈二尺七寸の見事な像を完成させて、持仏堂に安置し礼拝していましたが、あまりの素晴らしさに仏力の賜と感銘して自分で護持していたいと思うようになります。約束の日になって覚明は来訪しますが、快慶は偽って「今度の御本尊は霊告によるもので容易には完成できないので、さらに来年の春まで待って欲しい」と告げました。覚明は落胆しながらも翌年に再び上京します。今度は快慶も偽ることも出来ず本尊を覚明に贈りました。

覚明は大変喜んで帰途につきますが、快慶の方は、今一度本尊を拝し奉りたいという気持ちを止められず、覚明の後を追いかけます。そして、山科の追分で追いついて、今までの事を全て明らかにして覚明に謝り、もう一度拝させて欲しいと頼みました。覚明も事の次第に感銘し箱を開こうとすると、突然箱の中から光明が放出して紫雲がたなびきました。2人は思わず伏して礼拝をし、箱の内を覗いて見ると、不思議なことに一体の尊像が二体に分身していたということです。これは仏様のはからいと、2人は各々一体ずつ背負って、覚明は東国に、快慶は当地に帰ったということで、以来、この本尊は「負別(おいわけ)如来」と呼ばれ崇敬を集めたということです。また山号の負別山(ふべつさん、また、おいわけざんとも)もこの物語に因んだものです。(尚、もう一体の方ですが、宮城県仙台市には同様の縁起を伝える仏像が祀られていて、「笈分(おいわけ)如来」と称されているということです。)





境内右には地蔵堂があり、高さ八尺の石造の地蔵尊が祀られています。(写真)
この地蔵尊は、弘法大師空海の作と伝えられ、もと六条河原の刑場に祀られていたと伝えられています。その後、鴨川の氾濫で埋もれていましたが、保元三年(1158)、平清盛の乗馬が急に動けなくなったので付近を掘ってみると、この地蔵尊が出てきたと伝えられます。以来、「駒止地蔵尊」の名で信奉されてきました。また、この地蔵尊は盗賊に襲われた篤信者を護って身代わりになって、首を斬られたと伝えられ「首斬り地蔵」の名もあり信仰をあつめ、江戸時代の中期に霊験が評判で名地蔵と数えられる地蔵尊21体中の1体に数えられているということです。
恐らく大河ドラマ「義経」が放送されて以降でしょう・・蓮光寺では、「文治元年(1185)源頼朝は義経暗殺の密命を土佐坊昌俊に下しますが、昌俊は義経に夜襲をかけますが敗れて捕えられ、六条河原で処刑されました。この駒止地蔵尊は、六条河原で処刑された多くの人の末期を看取ってきた」と案内版に記しています。





また境内墓地には、土佐藩主の長宗我部盛親(1575〜1615)の墓があります。(写真)
(尚、現在一般的に「長宗我部」と記されますが、古くは「長曽我部」と記されていたようで蓮光寺でも「長曽我部」を正式としています。)

盛親は土佐の戦国大名・長宗我部元親の四男として生まれました。父の元親は四国を制圧した英雄ですが、秀吉の大軍には敵わず降伏し、九州征伐に従軍します。しかし、この戦いで将来を嘱望された長男・信親を失うという悲劇に遭います。以降長宗我部家は家督相続問題に悩み、結局、元親は次男の香川親和、三男の津野親忠を退け、四男の盛親に家督を譲ることを決定しますが、この時に反対する重臣の粛清を行い、これはその後の長宗我部家家臣団中に暗い影を落とすこととなりました。
さて、慶長十四年(1599)の元親の死後、24歳で家督を継いだ盛親は、翌年の関ヶ原の戦いでは西軍側として関が原に陣しますが、実際の戦闘には参加しないままに西軍は敗北、盛親は領国土佐に逃げ帰りました。盛親は徳川家康に謝罪しますが、相続権を奪われるものと疑って兄・津野親忠を殺害したことを問われ、領国土佐を全て没収されて浪人となりました。

浪人時代の盛親は、京都で大岩祐夢と号して寺小屋を営んでいたともいわれ、この間に蓮光寺の住職・蓮光上人と親交があったと伝えられます。そして、慶長十九年(1614)秋、豊臣秀頼からの招きで浪人部隊を引き連れて大坂城に入城し徳川軍と決戦に及びました。特に翌元和元年(1615)の大阪夏の陣では、徳川方の藤堂軍を破り奮戦します。しかし大阪城は落城し、盛親は再起を図って逃亡しますが、山城八幡付近に潜んでいるところを捕えられ、六条河原で斬首されました。(41歳。ここに長宗我部家は滅亡しました。)処刑後、蓮光寺の蓮光上人は、京都所司代板倉勝重に請い首級を持ち帰って墓地に葬って供養したと伝えられます。

現在、蓮光寺の墓地には盛親の首を埋葬した五輪供養塔があり、その他蓮光寺には盛親の遺品として、太刀、鎧、鐙、画像等が保管されています。長宗我部家ゆかりの高知県人や歴史研究家、歴史ファンなどの参拝が絶えないということです。

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五輪塚に「長曾我部 土佐守泰 盛親之墓」と刻まれていますが、
この泰とはどういう意味でしょうか?
「長曾我部 土佐守 盛親之墓」と書かれていればすんなり受け入れられるのですが。

三島

2008/7/5(土) 午前 0:32 [ hig*_p*ste2*00 ]

「秦」は、多分、長宗我部氏が本来は秦氏だったことから、正式名として入れたものだと思われます。ご存知のように、長宗我部氏は、秦の始皇帝の末裔と称した渡来氏族・秦氏を先祖としていました。飛鳥時代頃、渡来して京都に太秦の広隆寺を創建したといわれる秦河勝の二十五世の孫に当る秦能俊が土佐国長岡郡に領地を得て、その地名から長宗我部を称したと伝えらます。長宗我部氏は秦の始皇帝の末裔であることを誇りとしていたようです。尚、高知にある秦神社は、長宗我部氏一族と秦氏一族を祀る神社ということです。

2008/7/5(土) 午前 10:39 [ hir**i1600 ]

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なるほど、泰ではなく秦ですか、それなら納得がいきました。

2008/7/5(土) 午後 8:02 [ hig*_p*ste2*00 ]


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